『ある呼び名』
冬の夕方、小さな診療所の扉が静かに閉じた。 中から出てきた青年は、冷えた透明な空気に、思わずマフラーで口元を覆った。 「よっ」 通りの木にもたれるようにして、若い男が片手を上げた。 以前にもこういうことがあった。もう来るなと言っておいたはずなのに、この友人はまた懲りずに待っていたらしい。 「もの好きだな。また来たのか」 「お前がこんなところに通うほうが珍しいよ。それで、どうだった?」 「どうって」 青年は何度目かのこのやりとりに、うんざりしたような表情を浮かべた。 「何か聞かれたか? 昔のこととか、病気のこととか」 「いや、とくには何も」 「じゃあ、何をしてたんだよ」 青年は曖昧な表情を浮かべ、診療所の窓を見上げた。薄いカーテンの向こうに、いくつもの小さな光の粒が見えた気がした。 同時に青年は、先刻まで対面していた物静かな女性のことを思い出した。 彼女は『音を聴く人』なんて呼ばれているらしいが、いつだって、音を聴くことが目的じゃないみたいに、視線はどこか別のところを見ていた。 彼女の前に座り、少し話す日もあれば、ほとんど言葉を交わさない日もあった。むしろ、何かが喉元まで来ているのに、口に出せないまま沈んでいくことの方が多い。そういう日は、あの人が窓辺の石に触れる様子をただ見ている。 最初に診療所を訪ねた頃は、俯いたまま自分はもう誰にも理解されないのだと思っていた。いや、たぶん理解されないこと自体は問題ではなかった。恐れていたのは、このまま自分が多くの人たちの中で薄れていって、少しの痕跡すら残らないかもしれないことの方だった。 けれど、あの人はその絶望を聴いたはずなのに、なにも言ってくれなかった。ただ、部屋の床に転がり落ちたものを拾い上げて、そのままにはしなかっただけだ。 救ってくれるなら、もっとわかりやすく、光の差すほうへ手を引いてくれてもよかったはずなのに、あの人はそうしなかった。たぶん、端からその気もないのだろう。どれだけの人が彼女を訪ねているのかは知らないが、彼女が直接的に救いの手を差し伸べている姿は想像できなかった。 それでも、勝手に救われていた。 窓辺に置かれた石が一つ増えるたびに、自分の気配がこの場所には残る気がして、呼吸は楽になっていった。 青年は窓を見上げるのをやめて、友人に向き直った。微かに眉を寄せながら。 「見てもらってる、って感じかな」 「診てもらう、じゃなくて?」 「うん。たぶん、少し違う」 友人は鏡映しみたいに眉を寄せた。 青年自身、うまく言えている気がしなかった。 「治るのか?」 青年は小さく笑った。肩を竦めて。恐らくその問いは、いちばん正解から掛け離れている。 「僕の病気は治らないよ。知ってるだろ?」 「そうだったな。ごめん」 青年はその謝罪に首を横に振った。そして、逆に友人を元気づけるみたいに微笑んだ。 「あれはなんというか治す、って感じではないな」 「じゃあ、何なんだ」 青年は、足元の石畳へ目を落とした。 自分の中にも、まだ手つかずのまま転がっているものは残っている。完全になくなったわけではない。きっと、無くなることはない。 それでも、前よりも躓く回数はずっと減った。沈黙は沈黙のままでも、そこに隠されたものをちゃんと見つけられる日がある。それだけで、歩き方はほんの少しだけ変わるのだ。 「あの人は僕の代わりに、見失わないでいてくれるんだと思う」 友人はしばらく黙ってから、診療所を振り返った。 「やっぱり、変な場所だな」 「そうだな。ほんと不思議」 「それでいて、こっちをじっと見たまま、ほとんど喋らないんだろ、あの人。診療っていうより、なんか黙々と観察でもされてるみたいだぞ」 青年はその言葉には、なんとなく頷けなかった。 観察、という言葉には一枚の壁を隔てた距離がある。感情を伴わず、淡々と見つめるだけの冷淡さがある。それは当たっているような気もしたが、どこか納得しきれない違和感が残った。 あの人は、ただ遠くから眺めているだけではない。けれど、踏み込みすぎもしない。近づきながらも、決して越えることがない。彼女はその境目に、ずっと座っている。 「さあな」 青年はそれだけ言って歩き出した。友人も追いかけてくる。凍った水たまりを避けるようにして並んで歩きながら、二人はもうその話をしなかった。
それから数日後の昼前、青年は診療所へと続く長い並木道を歩いていた。白い日差しの中で、すれ違う人々は、みな一様にのんびりと歩いていた。つられて彼の歩みも遅くなった。 公園の近くを通りかかったとき、ふと前を歩く母親に小さな子どもが訊いた。 「おかあさん、『観測所』ってきょうもあいてる?」 「たぶんね。あとでお姉さんのところに寄ろうか」 青年は思わず足を止めた。 その呼び名が、いつ、誰の口から町に溶け込んだのかは分からない。でも、それがどこを指しているのかは、直感的に理解できた。友人の「観察」という表現がきっかけだったのかもしれないし、もっと別の誰かが始まりだったのかもしれない。この瞬間、自分の中で彼女の行動にふさわしい名前が見つかった気がした。 観測所。 それが正しい名前なのか、青年にはまだわからなかった。そんな風に名付けてしまっていいのかもわからない。 けれど、完全に間違っているとも思えなかった。 彼は診療所の窓辺を思い出した。 陽に照らされた小石の列。そのどこかに、自分が置いていった、声になり損ねた日々の欠片も一緒になって並んでいる。 今日もあの部屋で、誰かの沈黙が拾われて、大切に置かれているのだと思うと口元が緩んだ。 そしてこれだけは、はっきり言える。なによりも先にあったのは、あの静けさのほうだ。呼び名は後から付いたにすぎない。 青年はほっと白い息を吐いて、再び並木道を歩き出した。 次に会ったとき、彼女に尋ねてみようか。 ここは観測所なのか、と。