作品
ある呼び名
静寂の観測所3 / 4
冬の夕方、小さな診療所の扉が静かに閉じた。 中から出てきた青年は、冷えた透明な空気に、思わずマフラーで口元を覆った。 「よっ」 通りの向かいの木にもたれるようにして、若い男が片手を上げた。以前にもこういうことがあった。もう来るなと言っておいたはずなのに、この友人はまた懲りずに待っていたらしい。 「……もの好きだな。また来たのか」 「お前がこんなところに通うほうが珍しいよ。それで、どうだった?」 青年は曖昧な表情を浮かべ、診療所の窓を見上げた。薄いカーテンの向こうに、いくつもの小さな光の粒が見えた。傾き始めた陽の光を受けて、石たちは輪郭の一部を光らせていた。 「何か聞かれたか。昔のこととか、病気のこととか」 「いや、とくには、なにも」 「じゃあ、何をしてたんだよ」 その問いには、答えがありそうなのに、すぐには答えることができなかった。 彼女は『音を聴く人』なんて呼ばれているらしいが、いつだって、音を聴くことが目的じゃないみたいに、視線は別のところを見ていた。 彼女の前に座り、少し話す日もあれば、ほとんどなにも言わない日もある。むしろ、言葉が喉元まで来ているのに、形にならないまま沈んでいくことの方が多い。そういう日は、あの人が窓辺の石に触れる音だけを聴いている。 最初に診療所を訪ねた頃は、俯いたまま、自分はもう誰にも理解されないのだと思っていた。いや、たぶん理解されないこと自体は問題ではなかった。恐れていたのは、このまま誰からも見過ごされて、存在の痕跡すら残らないことの方だった。 けれど、あの人はその絶望を聴いたはずなのに、なにも言ってくれなかった。ただ、そこに落ちたものを拾い上げて、落ちたままにはしなかっただけだ。 救ってくれるなら、もっとわかりやすく、光の差すほうへ手を引いてくれてもよかったはずなのに、あの人はそうしなかった。それでも、窓辺に置かれた石が一つ増えるたびに、自分の気配がこの場所にだけは残る気がして、呼吸は楽になっていった。 「……見てもらってる、って感じかな」 「診てもらう、じゃなくて?」 「うん。たぶん、少し違う」 友人は眉を寄せた。青年自身、うまく言えている気がしなかった。 「……治るのか?」 青年は小さく笑った。肩を竦めて。その問いが、いちばん正解からは遠いと思ったからだ。 「僕の病気は、治らないよ。知ってるだろ?」 「そう、だったな。ごめん」 青年はその謝罪に首を横に振った。そして、逆に友人を元気づけるみたいに微笑んだ。 「あれはなんというか……治す、って感じではないな」 「じゃあ、何なんだ」 青年は返事の代わりに、足元の石畳へ目を落とした。 自分の中にも、まだ名前のないものは残っている。なくなったわけではない。前より、躓く回数が減っただけだ。沈黙は沈黙のままでも、そこにあることをちゃんと見つけられる日がある。それだけで、歩き方はほんの少しだけ変わる。 「……見失わないでいてくれるんだと思う」 友人はしばらく黙ってから、診療所を振り返った。 「やっぱり、変な場所だな」 「そうだな。ほんと不思議」 「それでいて、ほとんど喋らないんだろ? 診療っていうより、なんか……黙々と観察でもしてるみたいだぞ」 青年はその言葉には、なんとなく頷けなかった。 観察、という言葉には距離がある。見つめることの冷たさがある。それはどこか当たっている気もしたが、喉元に飲み込み切れない違和感が残った。 あの人は、ただ遠くから眺めているだけではない。けれど、踏み込みすぎもしない。近づきながら、決して越えることがない。彼女はその境目に、ずっと座っている。 「……さあな」 青年はそれだけ言って歩き出した。友人も追いかけてくる。凍った水たまりを避けるようにして並んで歩きながら、二人はもうその話をしなかった。
それから数日後の昼前、青年は診療所へと続く長い並木道を歩いていた。白い日差しの中で、すれ違う人々は、みな一様にのんびりと歩いていた。つられて、彼の歩みも遅くなった。 公園の近くを通りかかったとき、ふと、前を歩く母親に、小さな子どもが訊いた。 「おかあさん、『観測所』ってきょうもあいてる?」 「たぶんね。あとでお姉さんのところに寄ろうか」 青年は思わず足を止めた。 その呼び名が、いつ、誰の口から町に溶け込んだのかは分からない。でも、それがどこを指しているのかは、直感的に理解できた。友人の「観察」という表現がきっかけだったのかもしれないし、もっと別の誰かが始まりだったのかもしれない。この瞬間、自分の中で彼女の行動に名前がついた気がした。 観測所。 それが正しい名前なのか、彼にはまだわからなかった。そんな風に名付けてしまっていいのかもわからない。 けれど、完全に間違っているとも思えなかった。 青年は診療所の窓辺を思い出した。 陽に照らされた小石の列。そのどこかに、自分が置いていった、声になり損ねた日々の欠片も一緒になって並んでいる。 今日もあの部屋で、誰かの沈黙が拾われて、大切に置かれているのだと思うと、口元が緩んだ。 これだけは、はっきり言える。なによりも先にあったのは、あの静けさのほうだ。呼び名は後からついただけなのだろう。 青年はほっと白い息を吐いて、再び並木道を歩き出した。