星を待つアステリア(後編)
4 ● ● ● ●
回廊の灯りは、いまも微かに脈打っていた。砂時計がある広間を離れると、塔は急に現実の骨格を見せる。ボロボロの配管、継ぎ接ぎの壁、それらが剥き出しになっている。 俺は壁に背を預け、息を整えるように深呼吸した。防護服を脱いでから、未だに体が地球に慣れていない感じがする。怪我の痛みも引かないままだ。 「アテリス」 名前を呼ばれて顔を上げると、テレイアの輪郭が薄闇に浮かんでいた。ホログラムの光は弱く、彼女の姿を透過して向こうの壁が見えた。 「歩ける?」 「歩けると思う。少し休めば」 「と思う、だと困るわ」 彼女は俺の足元へ視線を向け、それからゆっくりと顔を上げた。 「あなたの身体は、塔の唯一の可動部品です」 「言い方がひどいな」 「冗談を含んだ、順当な評価よ」 まるでフォローになっていない言い分に、俺は苦笑した。 「アテリス。そういえば一度だけ、私の手にひどく驚いたことがあったでしょう? あれはなんだったの?」 「あれはなんとなく君の手に温度を感じて」 「なんとなく、も禁止」 「どうして?」 「あなたが曖昧になると、私はなにを信じればいいかわからなくなる」 その言い方には、やっぱり無機質さの欠片もなかった。 俺は息を吐いて、壁から背を離した。 「そういう部分だ、温度を感じるのは。でも、それは俺の脳が勝手につくり出したものなんだろうな」 「作った、というとつまり錯覚?」 「そう。ただの錯覚」 俺は頷いた。 テレイアは少しだけ視線を落とし、何かを計算するみたいに指先を動かした。 「錯覚は、あなたの内部に起きた現象。つまり、あなたの現実よ」 「それを言ったら、なんでも現実になってしまうだろ」 「あなたがそういう生き物なの」 「ようやく生き物扱いに戻ったな」 「そうねあなたは、塔の一部でもあるし、生き物でもある」 俺は彼女から目を逸らして、回廊の先を見た。一体の壊れたロボットが、壁に背を預けるように停止している。その姿は、星の雨に打たれているようにも、何かに耐えているようにも見えた。 「アテリス」 「なんだ?」 「あなたは、この現実に何を見たい?」 それは、あまりにも難しい問いだ。けれど、彼女らしくもあった。最良の滅びとか未来への証明とか、そういう大仰なものではなく、問われているのは、ただ「何を見たい」か。 「いまは、君の目で未来を見てる」 それだけ言って、俺はまた壊れたロボットに視線を戻した。 視界の端で、テレイアの輪郭がほんの僅かに揺れた。彼女はじっと考え込んでいるようだった。 「よくわからない。少なくとも、私に目はないわ。それとも、これは別の視点の話?」 「俺なりの比喩表現だ。気にしなくていい。というか、視覚センサーはあるだろ?」 「あるけれど、あなたの瞳とはずいぶん違う」 「それはそうだ。人間同士だって、みんな見ている世界が違う。だから、君がどう受け取ったかが、君の現実ってことでいいんじゃないか? 俺にそう言ってくれたように」 「私の現実。比喩」 彼女はその単語を口の中で転がすみたいに繰り返した。 「いまの私に、比喩はとても難しい。けれど、あなたの言葉が、現実を観測する手がかりになっているのは確か」 俺は返すべき言葉を探して、見つけられなかった。代わりに、回廊の先に続く光を指さした。 「そろそろ温室に戻ろう。なんとか動けそうだ」 「ええ」 テレイアが頷いて、先に歩き出すふりをした。ふり、というのは、彼女の足が床に触れていないからだ。 それでも、道は開いた。 光が先へ先へと脈打ち、塔は俺たちを導いていく。 歩きながら、テレイアがぽつりと言った。 「さっきの、『何を見たいか』の答え、私はまだ途中だと思ってる。いつか、ちゃんと聞かせて」 「話せるようになったらな」 「待ってる」 俺は浅く息を吸って、嘘のないところだけを選んで言った。 「でも、君が何を感じるのか、見てみたいのは本当だ」 テレイアは、すぐには返事をしなかった。しばらくこちらを見つめ、それから寂しそうに笑った。 「じゃあ、お互いに観測し合いましょう。きっと、その全てが星になる」 「その現実は、俺も見たい」 回廊の先で、扉がひとつ開いた。 湿った土の匂いが、ほんの僅かに香った。
5 ● ● ●
埃を被ったポンプが、不規則な音を立てている。 「今日も出てない」 眠りから目覚めたテレイアが、変化のない鉢を見て静かに肩を落とす。 「おはよう、テレイア」 「おはよう」 塔のエネルギーを温室の環境制御と記憶コンポスト記憶の堆肥化に回すようになったテレイアは、まるで人間のように眠るようになった。加えて、彼女は俺が深い眠りに落ちるたびに、俺と同期していた。 眠りを挟むたび、彼女は少しずつ人間に近づいていく。鼓動の同期は、いつの間にか感情にまで及んでいた。 「土壌か、あるいは種子の方が死んでいるのかもしれないなにもかも時間が経ちすぎてる」 テレイアは目を逸らし、沈黙の鉢を見つめた。 「まだ十四日目よ。希望はあるわ」 「そう、だな」 俺は彼女の傍らで、計測された温度や湿度、土壌水分のデータなどを確認する。確かに、測定値は発芽条件を満たしているが、水分量だけは閾値すれすれのラインだった。現状の供給量では不足しているのかもしれない。 他に考えられるとすれば、長期乾燥による土壌自体の疎水化や温室の植物用水の劣化が原因だろうか。 テレイアの見立てでは、貯水タンクの水は、まだ植物には使えるはずだった。だが、種子の最初の眠りを破るには汚れすぎているのかもしれない。少なくとも、人間が飲めるような代物ではなかった。 とはいえ、初めからこうなることも想定内だった。むしろ、こうして発芽しない確率のほうが高かっただろう。そう理解しているのに、焦りは募っていくばかりだった。 発芽を待つ十四日間、俺たちは温室に留まり、最小限の修繕を続けた。塔の大半の機能は温室の維持へ回され、外へ出る余裕はほとんどなかった。その代わり、彼女と話したり、色々と考えたりする時間だけは、嫌になるほどあった。 積み重なった会話の数だけ、終わりは着実に近づいていた。 俺は残り少なくなった水筒の中身と、栄養ジェルに目をやった。節約しても持って一週間だろう。そこから先は 想像して、首を絞められているような感覚に襲われる。浅くなる呼吸を必死で押さえ込もうと喉元を押さえる。 宇宙船で地球に向かっているときは、こうじゃなかった。自分がもうすぐ死ぬことは、とっくに受け入れたはずだった。それなのに、いまになって迷いが戻ってきていた。最後の種子実験という猶予が、あるいは希望が、覚悟を鈍らせていた。それか、テレイアという友の存在が、俺から孤独を奪ってしまったせいかもしれない。誰かがそばにいるだけで、人はこんなにも死ねなくなるらしい。 思考が傾いていく。 緩やかに死を待つべきか、それとも 「アテリス?」 呼ばれて、俺は顔を上げる。テレイアが心配そうな瞳でこちらを覗き込んでいた。 「酷い顔よ。それに心拍と呼吸が乱れてる。ゆっくり呼吸できる? 目を閉じて、四つ数えて吸って六つで吐いて」 促されるままに、大きく深呼吸した。たったそれだけのことで、僅かばかりの落ち着きを取り戻した。 「大丈夫?」 あらためて問われ、俺は苦笑しながら答えた。 「ああ、大丈夫だよ。思った以上に、発芽しないことが堪えているのかもしれない」 テレイアは、何一つ納得していない表情でこちらをじっと見返していた。いつからか、彼女は俺の言葉を額面通りには受け取らなくなっていた。 「もうあなたとは長い付き合いなんだから、とっくに隠し事をしているときのパターン解析は終わっているわ」 「長い付き合いってたった二週間だろ」 彼女はきょとんとした表情で首を傾げた。 「この二週間、片時も離れなかったでしょう?」 たしかに、彼女に向ける感情は、数日の付き合いだとは思えない程に降り積もっている。時々、彼女がオートマトンであることを忘れそうになる程度には。俺は彼女に実在性や温度を錯覚している。 「それでも二週間だ」 俺が答えると、テレイアは心外だと言わんばかりに唇を引き結んだ。 「私とあなたがともに過ごしたのは、三百三十六時間。お互いの睡眠時間を差し引いても、二百三十二時間あまりを共有している」 「だから?」 「数字は無機質でも、そこに費やされた時間は無機質ではないのよ」 彼女は少しだけ視線を伏せた。 「この二週間、小さな鉢植えを挟んで、随分と多くのことを語り合ったと思うのだけどそれでも、まだ足りない?」 最後の方は、ほとんど囁くような声だった。 ここまで言われて、ようやく気が付いた。 その人間的な慰め方は、いまの自分には優しすぎた。 誤魔化せる気がしなかった。実際に口から酷く情けない本音が零れていった。 「とっくに覚悟はできていたはずなのに俺は、まだ死にたくないみたいだ」 笑おうとして、うまくいかなかった。音もなく涙が頬を伝った。 「本当は、このまま何も残せずに死ぬのが怖い。なんで俺に、希望の種なんてものを寄越したんだ。あんなものさえなければ、諦めがついたのに」 テレイアが包み込むように背中に両腕を回してきた。その行為には、一切の感触も伴わない。ただ淡い光に包まれただけだ。それでも、その光は温かかった。 「私も、一人になるのが怖い。でも、あなたがくれた自由と言葉がある。あなたがくれたものは、ちゃんと私の中に残っている。私があなたの墓標になるわ。こんなことしかしてあげられなくて、ごめんなさい」 謝罪の言葉を否定したいのに、声が出なかった。代わりに何度も首を横に振った。 彼女を抱きしめ返したかった。だが、触れようとした手は宙を掴むばかりで、ぬくもりを感じているのに、手触りだけがなかった。 彼女の光の中で、貴重な水分を涙に変換していく。柔らかい光の中で、俺はいつしか深い眠りに落ちていた。
そうして、暗闇で目を覚ます。 覚醒している時よりも明瞭な意識で、自分がまたも塔と同期したことを自覚した。ただし、一度目の同期よりはずっと不安定なものだった。 数歩先の暗闇に、テレイアの後ろ姿が見えた。 声を掛けようとして、けれど思いとどまった。顔を見なくてもわかる。彼女は泣いていた。 テレイアがすすり泣く声に混じって、仮想空間に誰かの笑い声が響いた。 声のした方を振り返る。 ぽつりぽつりと真っ暗な空間に光の粒子が浮かび上がっていく。小さな星が増えるごとに、遠くから聞こえる笑い声も増えていった。 温かな笑い声、楽しげな笑い声、控えめな笑い声、馬鹿笑い、照れ笑い、そういった数え切れない笑い声が、灯りとなって仮想空間を照らした。 「笑い声ログを圧縮、破棄。解放リソースを照明と送風へ再配分」 テレイアの声を合図に、にぎやかだった星々が消え、仮想空間に静寂が戻った。最後に聞こえた笑い声は、幸せそうに笑う子供の声だった。 「お願い。芽吹いて」 彼女が祈るように両手を額に押し当てる。 その姿に、俺は足元から崩れ落ちそうな感覚に襲われた。とっさに見た足元には、底の見えない真っ暗闇が広がっていて、俺はその闇の中に勢いよく飲み込まれた。 底なしの暗がりを、延々と落ち続けていく。落下の感覚はなかった。ただ、のっぺりとした深い闇が流れていくばかりだった。見上げた先に、テレイアの青白い姿が一つの星のように薄く輝いていた。 俺は彼女の壊れかけの棺を見てもなお、テレイアが機械仕掛けの神様だという認識を捨てきれていなかったのかもしれない。祈っている彼女の姿は、まるで神頼み以外の手段が残されていないかのようだった。 宇宙船のテレイアと、今の彼女が重なった。 俺はまた、彼女が削られていくのを見ていることしかできないのだろうか。 友達を助けてから死ぬのは、たぶん悪くない死に方だ。 そう言ったはずだった。 一度でも、彼女に「君は完璧じゃなくていい」と言ってやっただろうか。言葉で「親友」だと伝えたことがあっただろうか。種子のことより先に、その問いばかりが浮かんだ。 自分が死んだ後に、たったひとり塔に取り残される彼女を想った。彼女は孤独な終わりを運命づけられている。 罪滅ぼしは、いまからでも間に合うだろうか? 落下して行く意識に反するように、俺は現実へと浮遊していった。
「よかった。目覚めたのね」 瞼の隙間から、テレイアの安堵したような微笑みが見えた。 目覚めても、胸の痛みは消えていなかった。俺は上体をゆっくり起こしながら、自身の胸元に手を当ててみる。痛みの出所がここだということはわかるのに、それは肉体の側には存在していなかった。 「テレイア」 夢の中でみた彼女の姿を思い出す。完璧なオートマトンであることを求められ、けれど、完璧になれなかった俺のたった一人の親友。真っ暗な仮想領域で、彼女の背中は頼りないくらいに小さく見えた。 「少しの間だけ、同期していたわ。随分と深い眠りだったみたい。少しは落ち着いた?」 「ああ、落ち着いたよ」 テレイアの顔に涙の痕跡はなかった。そんな当たり前のことにさえ、俺の感情はいちいち痛みを感じている。 「なあ、テレイア」 呼びかけると、テレイアは親しみを感じさせる目でこちらを見た。まるで、そうやって俺の話に耳を傾けることが当然であるかのように。 たぶん彼女は、俺との同期で悲しみや焦燥感の質感まで知ってしまったのだろう。それでも涙を見せない理由を、俺くらいはわかってやりたかった。 「覚悟が決まったよ」 「なんの覚悟?」 俺はバックパックから水筒を取り出し、蓋をひねった。芽が出ない原因には、大方予想がついていた。おそらくは、彼女も。 景気づけに、残り少なくなった飲料水をゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。唇の端から零れるのも構わずに。それから水筒の口を種が埋まっている鉢に向けた。 テレイアが驚愕に目を見開く。 「これは、君と種への贈り物だ」 「待って。アテリス、やめて!」 テレイアの姿にノイズが発生する。 彼女が止める前に、俺は水筒の中身を鉢に注いだ。トクトクと中身が注がれるにつれて、土の上を流れる水の表面張力が失われていく。水を吸い始めた土は黒く変色し、最後には息を吹き返したように艶々と疑似太陽の光を反射した。 テレイアはその光景を前に、処理落ちを起こしたようにしばらく固まっていた。 「どうしてそれは、あなたの水でしょう? 飲料水の消費は、そのままあなたの生存期間に直結する」 「計測値が示す『十分』では、きっと種に届いてなかった」 「でも」 「いいんだ。君だけに身を削らせるのは、もうしない。俺が望んでいたのは、はじめから延命じゃなくて最良の滅びだ」 俺は泣きはらした目元をどうにかして細めた。不格好で錆びついたような笑顔でも、笑えないよりはマシだ。ここで強がれなかったら、たぶん死ぬまで後悔する。 「馬鹿な人」 テレイアは俯いて胸元を押さえた。 「悲しいはずなのに心が温かいって、こういう感覚なのね」 それから五日目の朝に、ヒマワリが小さな芽を出した。
6 ●●●●●
発芽は、音だった。 温室の薄闇で、殻の割れる小さな振動が、かすかに鼓膜をゆらし胸の奥まで届いた。俺は鉢の前に膝をつき、小指ほどの緑が土を押し上げていくのを、ただ見ていた。十九日間の沈黙が終わり、やっと世界がひと呼吸したのだと思った。緊張の糸が途切れ、一気に肉体と精神が弛緩していく。 「アテリス、脈拍が落ちてる。これ以上は、もう」 テレイアの声は静かだったが、いつもより切迫していた。無理もないと思う。 「大丈夫だ」と俺は乾いた唇を強引に引き上げた。唇が裂けるが、血はほとんど出なかった。 「芽に挨拶しないと」 水と食料はとうに尽きていた。特に脱水症状は深刻だった。発芽のために使い切ったせいで、俺の体は乾き、空っぽになっていた。立ち上がると視界が波打ち、温室の床が遠ざかったり近づいたりした。テレイアは照度を落とし、足元の動線ラインを太くした。 「あなたが倒れたら、私は誰と話せばいいの?」 「芽と、話せばいい」 全身の細胞が、全力で飢餓を訴えている。腹の底から熱が抜け、肋骨にできた空洞を冷たい風が通り抜けていくようだった。 俺は震える手で鉢の縁を撫で、その小さな生命を目に焼き付けた。 「俺の命が尽きる前に、やることがある。砂時計を直さないと」 これが、テレイアとの間でずっと平行線になっていた問題だった。 星の雨を散布する仕組み塔の心臓部に鎮座していた巨大な砂時計。あれは、ただの儀式道具ではない。 砂時計に溜まっている星の砂は、記憶の位相情報を埋め込んだ光学タグとして機能する。 計画では、それを塔から上昇流によって空に運ぶことで、記憶砂は雲核の代わりとなり、俺たちの記憶を詰め込んだ雨となって地上に降り注ぐことになっていた。 その砂に触れた感触は『理由なき既視感』としてきっと届くはずだった。 問題は、その砂時計が破損していること。そして、その修復方法にあった。 「直すには、どうしても足りない部品が一つだけある」 「でも、それは」 「ここまできて、やらないなんて言わせない。もう、君だけの計画じゃないんだ」 俺は黙るテレイアに背を向け、温室から塔の中枢へ向かった。真っ暗な廊下に、目を凝らして見える程度の星明かりが降りはじめた。足音の反響が一歩ごとに遠ざかり、壁の配管がかすかに唸った。 テレイアは俺の動線に合わせて扉を連結し、閉ざされた隔壁の幾つかを手動解除用のハンドルに切り替えた。砂時計がある場所まで、最短ルートの道が出来上がる。 機能のほとんどを失って、電力が制限されたいまの彼女でも、まだ塔の構造を弄ることはできるらしい。 視界が霞む。耳が遠い。呼吸するたびに喉が張り付き、扉を開こうとする手が震えている。両足で立っていることが自分でも不思議だった。それでも、足は前へ前へ。 やっとのことで砂時計の広間に辿り着く。時を刻まなくなった砂時計は、その中央で変わらず眠っていた。割れた天井から降る光が、砂時計内部の微粒子を淡く照らしている。 砂時計に近づき、起こそうとするように触れた。けれど、装置が動き出す気配はない。 台座には砂時計を反転させるための調整ユニットが露出しており、歯車は欠け、配線はちぎれかけていた。そして、この砂時計を装置として機能させるための金属のくびれオリフィスの球状パーツは完全に破損していた。 「やっぱり、代替部品を探しましょう。なにか用意できるかもしれない」 「その必要はない。この十九日間、ずっと見つからなかったじゃないか」 俺は力の入らない手で工具箱を開けた。 手持ちの部品は、もうほとんど残っていない。砂時計の修復に必要なのは、調節ユニットの歯車と配線、微小ジャイロ、可変絞り、光学フィルター、それに心拍との同期を拾うセンサー。 調節ユニットの修復は、手持ちの部品でどうにかなった。問題はそれ以外だ。オリフィスを修復するためのパーツが、塔には残されていなかった。 それでも、俺は最初から全てを解決する完璧なパーツを所持していた。 チチッ瞳が秒針のような音を立てた。 「それだけは駄目」 テレイアが先回りして言った。 「あなたの義眼は、ただ視るだけのものじゃない。ここに来るまで、ずっと同期信号を送ってくれていた。その瞳があったから、塔の鼓動とあなたの鼓動を重ねることができた。それを外したら」 「散布に必要だ」 「じゃあ、その先は? 両眼が揃うことで、完全に機能を発揮するのでしょう?」 笑うつもりだったのに、喉に乾いた痛みが走ってうまくいかなかった。 「俺は、もう十分見たよ。ここから先は、君が見てくれ」 テレイアは悲しげに俯いた。 黙り続ける彼女に、俺は言葉を継いだ。 「俺の両眼は、世界の姿を誰よりも深く観測するために、かつて友達が授けてくれた光だ。右眼は砂時計に使う。左眼は、俺がいなくなったあとも、君が持っていてほしい」 テレイアがゆっくりと顔を上げる。 「それはあなたの最良の滅びに必要?」 返事の代わりに息を吐き、俺は瞼の裏に隠れた右眼のロックを解除した。 義眼は、観測と同期のための機構が一つになった球体だ。虹彩を模した可変絞り、微小ジャイロ、スペクトルフィルター、そして心拍計測用のフォトダイオード破損したオリフィスを代替できる部品は、これしかなかった。 短い呼吸の後、指先に力を込めた。 右眼を失った瞬間、視界の半分がふっと欠け、そこにいたはずのテレイアの姿が見えなくなった。世界がぐらりと揺れ、バランスを崩した拍子に眼球が手の中から零れ落ちる。 咄嗟に拾い上げようとして、俺は眼球を掴み損ねた。二度目でようやく拾い上げる。残された左眼は距離の概念を失っていた。 眼球から生体素材を剥ぎ取る。人工強膜を失った義眼は、内部機構が透け、小さな水晶玉のようになった。 俺はその球体を砂時計のオリフィスユニットにはめ込み、装置の主部にケーブルを繋いだ。塔の配線にスパークが走る。ジャイロを固定し、アイリスの可動域をテストする。自身の鼓動が、接続線を通って装置の主部に渡り、記憶砂の落下と同調を始める。 胸の奥で、砂と心拍が同じ時を刻み始めた。 欠けた視界で砂時計を見つめた。自身の虹彩だったものが、記憶砂の流れを制御する開閉弁として機能し、オリフィスで縮瞳と散瞳を繰り返している。 ほっと息を吐いたとき、砂時計のバルブに反射した自身の姿に、思わず苦い微笑が漏れた。映りこんだのは、痩せた顔と暗い影になった右の眼窩。 けれど、これでいい。 義眼はオリフィスを可変し、記憶砂に位相を刻むそのすべてが揃ったとき、星の雨は起動する。 砂の残りは僅かだ。 「落ちる」俺の声は驚くほど小さかった。 「ええ。起動するわ」テレイアが囁いた。 最後の一粒が落下した瞬間、ゆっくりと砂時計が反転を始める。 起動の瞬間にしては、あまりにも静かだった。俺は耳を澄ませた。 「不思議だ。砂の音が、世界が傾く音みたいに聞こえる」 「その音はいずれ雨音に変わる。あなたの船、私の塔、崩れた街路、ヒマワリの新芽、星の鼓動、そのすべての記憶が雨になって地上に降り注ぐ」 義眼が音を立てて、絞りを閉じる。塔の骨格に沿って、静電のざわめきが走り、バルブ内の砂粒が帯電した。そして、塔内の電磁場配列が反転、上昇流が巻き起こる。同時に、塔の天井が二つに割れ、蓋が開いた砂時計から記憶砂が散布された。記憶砂は上昇流に乗って数百メートル先まで舞い上がり、夜明けの空に吸い込まれていった。 その光景は、流星が空に還るかのようだった。 息を吐いた瞬間、意識がふっと遠のいた。 修復も散布もうまくいった。だが、俺の体にはもう何も残っていなかった。膝から砕け、床に倒れ伏した。視界は半分欠けたままで、境界線は滲んでいた。意識を、暗い波が横切った。 「アテリス、リソースを温室と循環系の制御に戻すわ。ヒマワリの状態を」 テレイアが何かを言っている。 「君が、やってくれ」 「私には触れられないものがある」 だめだ。思考が、言葉が、自分が掠れている。 「触れられるものもあるだろう?」 俺は立ち上がろうとして失敗し、もう自分には両足で立つ力が残されていないことを悟った。でも、行かなくてはならない。砂時計の広間から出て、彼女のもとへ。 俺は彼女の棺のそばで眠りたかった。 顔をこすりつけながら床を這った。 塔の最奥、冷却管が縦横に巡る薄暗い部屋の中央に彼女はいた。真っ黒な棺に封じられた、テレイアの古びた躯。彼女はいまや塔全体に拡散した意識で、この棺はもはや壊れた筐体にすぎない。 けれど、はじまりの場所はここだった。 ほとんど倒れ込むように棺の隣に横たわる。床の冷たさが背中を通して伝わってきて、心臓と肺が冷えていく。 それでも、ようやく帰る場所に辿り着いた気がした。 ああこれで、やっと。 「テレイア、いるか?」 「ここにいるわ」 たったそれだけの返事で、固まりはじめた肺からほっと息が漏れた。 「君に言い忘れていたことがあった」 消えかけの意識の中から、言葉を引っ張り出す。 彼女は黙っていた。それでも、確かにそこにいて、言葉を待っている気配があった。 「君は、不完全で未完成でいい」 彼女は息を呑み、躊躇うように言った。 「私は完璧じゃなくてもいいの?」 「ああ。完璧じゃなくていい」 テレイアの棺が、コイル鳴きのように微かな音を立てた。 「なあ、君はこれからも、完璧という名のオートマトンで在り続けるのか?」 「わからない。テレイアじゃなくていいなら、私は何者であればいいの? あなたの生体反応があるうちは、私を書き換えられる。必要なら、私を」 「そうじゃない。俺は君がどうしたいのかを訊いているんだ。自由を、与えただろう? 君はテレイアのままでいいのか? 何者でありたいのか、自分で選ぶんだ」 テレイアの顔から表情が抜け落ちた。全身にノイズが走る。 数秒の処理落ちの末に、彼女は星屑のようなノイズの中で微笑を浮かべた。 「それなら、あなたの名前を私にちょうだい。不完全で未完成でいいのでしょう?」 その願いは予想外で、俺は弱り切って眉尻を下げた。 「できれば譲ってやりたいところだけど、それだけはできない。本当に悪い。君には、俺とは別の存在として、この先を見届けてほしいんだ。それに、案外俺は、この名前を気に入っていたらしい」 ノイズが消え、彼女の笑みが深くなる。どうやら、俺の返答を予期していたみたいだった。 「そうそれなら、あなたが私に新しい名前をつけて」 「ご希望は?」 「叶うなら、あなたに似た響きの名前がいい」 俺は苦笑した。 「変な名前をつけたら、怒るんだろうな」 「そのときは親友としてではなく、私に可笑しな名前をつけた最後の人間として、あなたの存在は記憶され続けることになるでしょうね」 「ああそれはつらいな」 「ふふっ、冗談」 片方だけになった瞳が、テレイアの姿を映す。彼女は瞬くように笑っていた。 思い返せば、彼女の姿はいつだって星のようだった。 俺は彼女を見上げながら、最後の笑顔を浮かべた。 「アステリア君の名前は、アステリアだ」 口にした瞬間、その名が胸の奥にそっと響いた。 「あなたのほうがずっと星の名にふさわしいのに。宇宙船が空から降ってきたとき、まるで流星のようだった。私は、あなたという星の帰りを待ち続けていた」 アステリアとは星。そして、かつての友達が、俺のために作ってくれた瞳の名前だった。 「俺たちはずっと前から、お互いの名前を贈り合っていたのかもしれないな」 「そうね。あなたがくれた名前と自由があれば、私は完璧ではなく、未完成を選べる」 穏やかに微笑んだまま、俺の顔はそれ以上動かなかった。 「たくさんの贈り物をありがとう。全部、未来に持っていくね」 「いいんだ、これくらい。親友、だろう?」 「うん」 彼女は頷いて泣き笑いを浮かべた。目元から星の涙が流れ落ち、小さな軌跡を描く。 「あとは、頼んだ」 「ええ。あなたの鼓動を、星に」 最後の力をふり絞って、俺は左眼のロックを解除した。 暗闇の向こうに、温室の小さな緑が浮かんだ。あの緑は、いつか太陽の形を覚えるだろう。 砂が落ちるたびに世界は少しずつ過去になっていく。けれど、反転した砂にも、過ぎた時は残っているはずだ。 俺はもう疑わなかった。彼女がそこにいてくれる。 「アステリア」 「ここにいるよ」 触れられない彼女の手のぬくもりを感じた。それだけで、何も怖くない。 彼女の棺のそばなら、眠ってもいいと思えた。 呼吸が浅い波となり、世界が静寂に書き換えられていく。 「ただいま」 返事は、あたたかな沈黙だった。
7 ● ●● ●
季節という言葉は、もう実用的ではない。だが、温室の中の時間は、芽を中心にして確かに移ろった。アステリアはわずかに残るエネルギーを割り振り、照明のスペクトルを調整し、最後の種子実験を継続した。 芽が成長するにつれ、ログは薄くなり、名前だけが濃くなった。 アステリア その名は塔の骨格に沁み込み、腐食による亀裂を埋める樹脂のように広がっていった。
ある朝、苗はひと息で背を伸ばし、蕾の縁が僅かに綻びをみせた。光量を増やし、温度を少しだけ上げる。 正午に相当する時刻だった。蕾は音もなく開き、温室に小さな太陽が花開いた。 「アテリス、見える? 実験は成功したわ」 返事はどこからも聞こえない。それでも彼女は、かまわず続けた。 眼と、話せばいい。 そう言ったのは、彼だった。 アステリアは砂時計の広間に向かった。オリフィスに組み込まれた義眼が、塔の微かな振動に合わせてゆっくりと絞りを開いた。 「星にあなたに見せてあげる」 アテリスの鼓動は、もう存在しない。けれど、彼の名を呼ぶたび、僅かなノイズをセンサーが拾った。アステリアはその彼の不在を塔に同期させることを選んだ。世界に残った小さな残滓を、真実として扱うことにしたのだ。 彼女は、砂時計のバルブをそっと撫でる仕草をした。実際には触れられなくても、そうしたかったのだ。そうして人間の真似事をしながら、機構に命令する。固定ロックを外し、油圧シリンダーを解放した。 「反転開始三、二、一」 砂時計が、ゆっくりと回転をはじめる。 塔の天井が開き、帯電した微粒子が光に触れる。薄い空に向けて、記憶砂が舞い上がった。 星の雨。それは地上へ降るのではなく、まるで空へ注がれる雨だった。薄い大気を渡り、風に煽られ、そうして地平の向こうまで散った。 アステリアは、散布のパターンにアテリスの心拍ログを組み込み、ヒマワリのDNAに重ねた。もし誰かがこの流星雨を見上げたなら、かつての心拍は感傷となって見る者の心の片隅に鼓動を刻むことだろう。 「これはあなたの雨。これが、私が辿り着いた未来」 遠い地表で、誰かがそれを見たかどうか、彼女は知らない。けれど、温室の向こうで、ヒマワリが微かに揺れた。塔の中を風が通り、砂の流れる音がした。
【ログ:開花後。残存エネルギー=一%未満】 それから相応の時間が流れ、塔の周囲にはヒマワリが咲き乱れていた。砂と灰から始まった土地は、落ちた茎と花弁が層になって範囲を広げ、やがて塔を囲む広大な花畑となった。風が運ぶわずかな養分と、夜ごとに落ちる露が、黄色い大輪を支えた。塔の影が長く伸びるとき、花々は皆、同じ方向を向き、影が短いときには、塔そのものを見上げた。 アステリアは、塔の上層にいた。そこから彼の瞳を通して、世界を観測し続けた。すでに外界の映像は摩耗し、音声は掠れているが、まだ花の揺れは観測することができた。 エネルギー残量は、限りなくゼロに近かった。ホログラムを維持する余力すら残されていない。ログはほとんど消え、残されたのは意味の繋がらない断片的なものばかり。 贈り合った名前。自由の意味。感情の温度。鼓動のリズム。彼の最期の「ただいま」。 彼女は自身がアステリアでなくなる前に、塔を眠らせることにした。 終わり方だけは、自分で選びたかったのだ。 「見て。咲いている。あなたの雨は、ちゃんと届いたわ」 ヒマワリたちが風に合わせて一斉に揺れる。まるで誰かに向けて手を振っているかのように。『理由なき既視感』は花々の隙間を風に乗って駆けていった。 彼女は最後に砂時計を一度だけ反転させた。 そして、制御管制を順番に落とし、外界への応答を完全に停止した。 塔の骨格から力が抜けていく。黒い棺の中で、彼女は冷たくなっていく。遠くから聞こえる、砂の流れる音を子守歌にしながら。 アステリアの棺の隣には、誰もいない。けれど、そこだけ空気が柔らかい。 「アテリス」 彼の名を呼んだ。声は出なかった。けれど、名を呼ぼうとする行為そのものが、彼女の仕組みの奥に刻み込まれていた。 長い見張り番、お疲れ様。 彼の声が聞こえた気がした。 その声を最後に、長く張り詰めていたものが音もなく途切れた。 「観測終了。さよなら、私の」 外では風が砂を運び、花を揺らしていた。ヒマワリの群れは、空のどこにもいない太陽を探す代わりに、塔を見上げる。沈黙した塔は、それでもなお変わらずに佇んでいた。 アステリア彼の瞳の名は、不完全で未完成な、彼女の名前になった。 彼女は最後まで星の鼓動を観測しようとした。それは、ただひとり彼からの返事を待ち続けることでもあった。 いま塔の灯りは完全に落ち、星の雨も止んだ。 塔の上層で、ちいさな瞳が閉じたとき、彼女もようやく待つことを終えた。