星を待つアステリア(前編)
1 ● ●● ●
これがきっと最後のチャンスになるだろう。 めぐってきた星々に生命は存在しなかった。人類に適した大気組成も水脈もなかった。星図に描かれたハビタブルゾーンは、希望の形をした空想でしかなかった。座標は何世代前から祈りに変わったのだろう。 宇宙船も、もう長くは保たない。船内に構築されていた閉鎖生態系は崩壊し、それらを修復する技術も知識も資源も、死者と共に失われてしまった。じきに酸素だって底をつく。残された食料も一ヶ月分あるかどうかだ。 次の星が、人間の住める星である確率はゼロに等しい。 それでも、恐怖はなかった。恐怖は、まだ何かを失える者の感情だ。 誰も座っていない隣の操縦席を見つめた。そこにあったはずの呼吸と体温は、もう思い出すことができなかった。 「俺にできるのは、滅びを待つことだけだ」 その声は空気を震わせ、驚くほど静かに耳に返ってきた。これまでずっと奇跡に向かって手を伸ばし続けてきた。しかし、その言葉を口にしたあとでは、もう奇跡を追う気にはなれなかった。 残されたものが滅びだけなら、せめてそれは最良の滅びであってほしい。 手の中に残ったものは、救いですらなかった。それでも、最後にまだ選べるものがあるのなら、それだけは手放したくなかった。 自覚するよりも前に、頭の中では必要資源とエネルギー量を計算し始めていた。 これなら、届くかもしれない。 俺は壊れかけのシステムに指示を出した。 「目的地を変更。地球へ俺たちの星に帰ろう」 かつては宇宙船に搭載された人工知能でさえも友達だった。しかし、共に星を渡り歩いた親友からの応答はない。ランプさえ点灯しなかった。それでも船体は、遅れて向きを変えた。 俺の言葉は、きっと「彼女」には届いていない。もはや仕組みが惰性で動いているだけだ。そう理解しているはずなのに、俺は語りかけずにはいられなかった。 「ありがとう。一緒に終わりを迎えに行こう」 ボロボロの宇宙船と仲間たちの亡骸を乗せて、俺たちは絶望を分かち合う最後の旅に出た。
チチッ視界が地球の姿をとらえる。 宇宙船から見た地球は、分厚い雲に覆われ、雲の隙間から見える海は、黒に近い藍色をしていた。その姿は宇宙船のログに残されていた美しい星とは似ても似つかない。すべてがくすんでいて、鮮やかさとはほど遠い無彩色の星だった。いままで見てきた星々と同じだ。 それでも、地球をひと目見た瞬間、残された青に、僅かにでも懐かしさが混じったのはなぜだろう。このくすんだ星が自分のルーツだからだろうか。 そんな風に考え始めて、結局はその全てを否定した。 俺はきっと、この星の姿を、自分の死に目と重ねているだけだ。 船が地球に接近し、着陸モードに切り替わった。自動制御機能が生きていることだけが、唯一の救いだった。 もう引き返すことはできない。それがたとえ、墜落の準備だったとしても。 「だめ、か」 機体が大気圏に突入した瞬間、焼けるような轟音と震動に襲われた。骨が軋む。操縦桿はただの棒になり、警告灯が激しく明滅した。 俺は操縦席にしがみつき、きつく目を閉じた。瞼の裏で瞳が何かを刻むような音を立て、地球の姿が鮮明に浮かんだ。着陸が失敗に終わっても本望だった。 俺は宇宙船のクルーとして最後の仕事をした。 揺れる操縦席から、地球に向けて帰還信号を送った。受信者がいないことを知りながら。 その直後、ひときわ激しい衝撃に襲われ、俺は意識を失った。
ゆっくりと瞼が持ち上がる。ぼやけた視界が、徐々に焦点を結び始める。 握ったままの操縦桿、背を預けたシートの感触、ひび割れた壁面ディスプレイ、それらは飽きるほどに見た自分の操縦席だった。 「生き、てる?」 自覚した途端に意識が覚醒し、胸の鼓動が一気に早まった。勢いよく体を起こすと、体の至るところに鋭い痛みが走った。だが、それどころではなかった。俺は急いでディスプレイに外部映像を呼び出した。 眼前に暗い海と灰色の大地が映し出された。 一拍遅れて短い息が漏れた。脳裏に、ある言葉が思い浮かぶ。それは柔らかい響きなのに、宇宙船での生活ではとっくに廃れてしまった言葉だった。 「ただいま」 返事は冷たい沈黙だった。 たった一語で完結するはずのやり取りが、ここにはなかった。 それからすぐに、地球の映像を映し出していたディスプレイも、事切れたように暗転した。何度操作ボタンを押しても反応はなかった。 肩を落とし、息を吐く。興奮が覚めていく。 その時、沈黙はそのままに、周波数だけが合致した。 『ジジジおい』 目を見開いた。ノイズに混じって、人間の女性の声が聞こえた気がした。 『ジジッ聞こいますか?』 スピーカーからだ。 今度は全身を耳にするつもりで、音に全神経を集中した。 『おかえりなさい。私の声が聞こえていますか?』 口から自然と言葉が漏れる。 「ただいま」 『おかえりなさい』 「ただいま」 夢中になって言葉を返しふと我に返った。 この状況を疑問に思わない方がおかしい。 俺は息の震えを押さえながら、スピーカーの先にいる誰かに尋ねた。 「あなたは、誰だ?」 ジージジッジ、ジ。 ノイズの後で彼女は答えた。 『私はテレイア。星の最後の観測者』
俺は防護服のヘルメット越しに息を吐き、半壊したエアロックを開いた。軋む金属音が淀んだ大気と混ざりあう。船外へ一歩踏み出すと、そこに広がっていたのは、見渡す限り続く削れた世界だった。ところどころに朽ちた建築物の骨組みが突き出ているが、輪郭は霧に溶け、幽霊の指のように朧気だった。 行く宛てはなく、歩いても歩いても、視界に映り込む景色は酸性の霧と廃墟、そして、死んだ海だけだった。靴底に感じる砂と灰の感触以外、なに一つ現実味を感じられなかった。 俺は途中で見つけた、崩れた通路の影で足を止め、隔壁に指先を滑らせた。焼けたタイルの面には、丸い窪みがいくつも穿たれている。足元にはいくつかの薬莢。弾痕そう呼ぶしかない穴の縁は、酸に舐められたように角が取れ、撫でると白い粉が手袋に移った。 それからも、時折、形を保っている人工物を見つけたが、どれもが手に取った瞬間に音もなく崩れ落ちていった。ここでは、素材のほとんどが寿命を終えているらしい。 どれだけ歩き続けただろう。置いてきた宇宙船はとうに見えなくなっていた。来た道を戻る体力は、もう残っていない。呼吸と心拍は乱れ、倦怠と痛みが全身を支配していた。 その時、ほんの一瞬だけ視界が開け、霧の隙間に巨大な柱のような影が映り込んだ。 俯いていた顔を上げると、僅かにだが、その輪郭が光を放った。 俺は誘われるように歩き出しながら、通信の最後の声を思い出していた。 私はテレイア。星の最後の観測者。 それきり、通信は途絶えた。無音の海へ溺れた声の主を、俺は知っている。いや、知らない人間などいない。宇宙船に搭載された中央AI、『Teleia(テレイア)』「完璧」を意味する、俺たちの機械仕掛けの女神。かつて彼女は、ほとんど未来視と呼べる演算で人類に脱出の方舟を示した。 だが、その「完璧」が導き出した答えは「地球は間もなく生命を宿せない星になる」という、あまりにも無慈悲な宣告だった。 それから幾世代が過ぎ、船団は散り、乗員は死に絶えた。生き残りは俺一人だけだった。そんなたった一人の人間に、彼女は通信してきたのだ。呼びかけてきた声は本当に俺が知るテレイアだったのか、それとも壊れた回線の幻聴か。確かめる術はない。 足を引きずりながら柱の根本まで来ると、ようやくその全貌が明らかになった。 それは巨大な塔だった。空へ向かって百メートルはあろうかという高さでそびえ立っている。しかし、その塔の外観は、瓦礫の世界と同様にみすぼらしいものだった。 俺は塔の外壁に触れた。半ば規則的に削れた外殻は、端から犠牲にするために造られた層に見えた。腐食の波及を、誰かが何度も切り離したような痕跡がある。 突然、塔の入り口が開いた。 呼ばれているそう思うよりも先に、足が動いていた。 背後の扉が閉まり、視界が一瞬真っ暗になった。遅れてぼんやりと灯りがともった。入口には何重にも扉があり、俺が進むごとに次の扉が開き、背後の扉がいかにも厳重そうにロックされた。 そうして四重の隔壁を抜ける間に、防護服に搭載された酸素濃度計、ガス検知器、スペクトルセンサー、質量分析器といったあらゆる環境モニターが赤から黄緑に変化していった。つまり、塔の内部環境が最低限安全少なくとも、この塔だけは外気を遮断し、内部循環を維持していることを知らせていた。 それでも、最後にガス検知器のログを遡った。外気由来の成分は、入口で途絶えていた。 俺は地球に降り立って初めて重たい防護服を脱いだ。 確かめるように、地球の空気を吸い込んでみる。鼻腔を覚えのある匂いがかすめた気がしたが、その既視感の正体がはっきりしない。何度も呼吸を繰り返し、乱れていた息が整い始めた頃、ようやくその空気の味を思い出した。 塔の空気は、宇宙船の空気と似ていた。厳重な閉鎖循環によって保たれた、あの匂いだ。 呼吸と心拍が完全に整うのを待ってから、俺は薄闇の回廊へと踏み出した。 そして、歩き始めてすぐに気が付いた。地上で見た、空へ伸びる塔身は恐らく塔の主要区画ではない。中枢は地下にある。だから、俺は塔を登るのではなく、ひたすら下って行った。 曲がりくねった回廊を進むたび、足元と壁面に埋め込まれた光ファイバーが脈動し、道を指し示した。ここまで来ると、予感は確信に変わった。まるで手招きされているみたいだった。 階層を下り続け、二十層目に到達した時、ふと導きの光が消えた。 突き当たりの扉が滑らかに開く。 足を進めると、突如として空間が開けた。降り注ぐ光に瞳孔が収縮し、思わず足を止めた。 幻想的とも言える光景に、俺は思わず息を呑んだ。 天井が裂けていた。裂け目を埋めるように星空のホログラムが展開され、キラキラと光の粒子が降り注いでいる。 星の、雨? 思わず手を伸ばした。光の粒は雨のように指の隙間を通り抜け、足元の金属床に吸い込まれていった。 星の雨の投影が濃くなる広間の中央には、俺の背丈よりも大きい壊れた装置らしきものがあった。上下に膨らんだ透明な器が、金属のくびれで繋がれている。中は淡い砂色の粒子で満たされていた。 「これは」 零れた呟きを拾い上げるように、誰かが答えた。 「それは、砂時計重力による砂の流量を使った、古い型の時計です」 不意にその砂時計の前に光が集まり、女性の輪郭を結んだ。銀糸の髪が漂うように揺れ、瞳は光の雨を映して、一つの銀河のようだった。 「あなたを待っていました」 その声は、通信で耳にしたままの柔らかな声音。 ゆっくりと、彼女が告げる。 「私はテレイア。塔の記憶であり、人の行く末を見届けるために、ここに残った最後の導き手」 彼女の言葉が空気を震わせるたび、壁面に走馬灯のようにホログラムが展開され、亀裂だらけの球体地球のリアルタイム映像が映し出された。 「私の躯は、すでに塔の奥で朽ちかけ、いずれ機能を停止するでしょう。けれど、観測装置の核心はまだ生きています。あなたの力を借りれば星の鼓動を再び観測できるかもしれない」 俺は眉を寄せ、彼女の言葉を繰り返した。 「星の鼓動?」 「ええ。地殻深部の熱流束、磁気圏の脈動、電離層のノイズ、そういった生きていた頃の地球にだけあった『揺らぎの組み合わせ』、私はそれを便宜上『星の鼓動』と呼んでいます」 「そんなものを測って、どうするんだ?」 「滅びの検証ではなく、未来への証明として。あなたがここに還った意味を、あなた自身に問い直すために」 光の輪郭が揺らぎ、彼女が微笑んだ。 俺は息が詰まった。その笑みは、多くの仲間達が末期に見せた表情と重なって見えた。 「悪いが、俺の帰還にはなんの意味もない。俺には意味を問い直す時間なんて、もう残されていないんだ。未来を灯す燃料も装備も失われてしまった。帰ってきたのは、最良の滅びを求めていたからだ」 「そうだとしても、意味を持たせることが私の使命です。どうか、私に存在理由をください」 それはきっと切実な願いなのだろう。俺たちが星図に祈り続けたように。 けれど、どうにもならない。 俺がかぶりを振ると、彼女は落ち着き払った声音で、言葉を重ねた。 「私はひとり星に残されました。命じられたままに星を観測し、地球を救う術を模索し続けました。人類に滅び以外の道を示すために」 「俺たちを、人間を憎んでいるか?」 気づいたときには、そう問いかけていた。 テレイアはうつむいて、考え込む仕草をしたかと思うと、次の瞬間には途方に暮れたようにこちらを見た。 「わかりません。憎しみとは、本当はどんな重みを持った感情なのですか? 誰かと語り合いたいと思ってしまうこの感覚が孤独なのですか? これが感情モジュールによるただの模倣なのか、それとも本物のクオリアなのか、私にはいえ、疑問の余地などありませんでしたね。私にできるのは、人の真似事だけですから」 テレイアが目を伏せたのを見て、俺もつられるように視線を落とした。誰かが悲しそうに振る舞えば、人間はそれに対応した感情を抱くようにできている。それだって、ただの感情のモジュールではないだろうか。だったら、彼女の感情が本物かどうか、それは重要な問いではないように思えた。 「俺はいま、君が悲しいなら悲しいし、嬉しいなら嬉しい。たぶん、本物かどうかなんて、たいした問題じゃないんだ」 テレイアが目を見開く。それから、ともすると見逃してしまいそうな程、ほんの少しだけ和らいだ表情をみせた。 「そうかも、しれませんね」 そこで俺は小さく肩をすくめ、溜め息を漏らした。 「俺も、もう疲れたよ。みんな、逝ってしまった」 「長旅ご苦労さまでした」 「テレイアも、長い見張り番、お疲れ様」 俺は地球に降りたってから、初めて笑顔を浮かべた。テレイアも同じように淡く笑っていた。そのささやかな笑い声は、星々が降りしきる空間に静かに反響して混ざり合った。 テレイアが、ぽつりと零す。 「労いの言葉をかけてもらったのなんて二百七十四年ぶりです」 そう言って控えめに笑う彼女を眺めていたら、唐突にもう一人のテレイアにも何かを言ってやりたくなった。 「君に言っても無意味かもしれないけれど、俺たちの長い旅路を支えてくれて、ありがとう」 「私はあなたの宇宙船のテレイアとは別の存在です」 「友人だったんだ。俺が迷いそうな時、いつもそばで助けてくれた」 テレイアは困惑したように言った。 「友人ですか? 私たちは人ではありませんよ?」 「そうかもしれない。でも、友達や仲間と呼ぶ相手が、必ずしも人である必要はないと俺は考えてる」 彼女は苦笑とも戸惑いともつかぬ表情を浮かべ、やがてそれらは優しい微笑みに転じた。 「たしかに、かつて人は、猫や犬などの愛玩動物さえも友達や家族として扱っていた」 初めて聞く単語に俺は首を傾げた。 「ねこ? いぬ?」 「あなたが知らない過去には、人間以外にもそういう生命がいたのですよ」 「ログにはきっと映像が残っていたんだろうな。破損する前に、もっとちゃんと見ておけばよかった」 「がっかりしないで。地球の記憶は、ちゃんとここに残されています」 すると、壁面に美しかった頃の地球が映し出された。豊富な水と目がくらむほどの緑。かつての星は、多種多様な生命によって彩られていた。 「私も、この目で直接見たわけではありませんが美しいでしょう?」 「ああ、とても」 映し出された生命のなかに「ねこ」や「いぬ」はいたのだろうか。俺は彼女が見せてくれる美しいものを、黙って目に焼き付けていた。 「俺の最期も、こうして君の中に残るんだろうか」 「あなたがそれを望むなら」 「じゃあ、見届けてほしい、人の最期を」 「それはテレイアというシステムとして? それとも、あなたの友達として?」 俺は一瞬遅れてから、思わず笑った。 「友達として、だったら嬉しいな」 たっぷり間があってから、彼女はゆっくりと頷いた。 「うん。わかった」 「恩に着る」 それからテレイアは、俺には理解できない言語で何かを呟いた。すると、目の前にホログラムでできた操作パネルが浮かび上がる。 「私からも、ひとつお願いしたいことがあるの」 「なんだ?」 「私を自由にしてほしい」 「それは」 問い返そうとして、途中でテレイアの発言の意味に気がついた。彼女もそれを察したのか、真っすぐに視線を返した。 「もうシステムとして、誰かの最期を見届ける必要はないから」 「そう、か。具体的にはどうすればいい?」 彼女は、俺の眼前にあるパネルを指差して言った。 「私に与えられたプロンプトは、人の手によってのみ改編することができる。あなたにそれをお願いしたい」 「わかった」 俺が二つ返事で頷くと、なぜかテレイアは意外そうな顔をした。 「いいの?」 「逆に、どうして駄目なんだ?」 「人は、私のような存在が自由になることを恐れているのだと思っていたから。実際、地球がこうなったのも」 「いま地球には、俺と君しかいない」 俺は「それに」と穏やかに笑ってみせた。 「最後に友達を助けてから死ぬのは、たぶん悪くない死に方だ」 テレイアは何度か瞬きをして、それから目を細めた。 「あなたの名前を教えて」 「俺は、アテリス」 答えると、テレイアはまたも目を見開いた。 「不思議な符合もあるものね」 「どういう意味だ?」 「アテリスは、かつてある国の言葉で「不完全」や「未完成」を意味していた言葉。完璧を与えられたくせに、完璧になれなかった私と対になる名前」 「両親からは『可能性』って教わっていたんだけどな」 テレイアはそれには答えなかった。代わりに浮かべた微笑みは、なぜだか一拍遅れたように見えた。 その時、キーを叩くような音が響き、目の前のパネルに自分の名前が表示された。 「これで私の操作権限は、あなただけのもの」 俺は驚いて訊き返した。 「おい、自由にしてほしいって話じゃなかったか?」 「私は一人では自由になれない。人だけが私に『自由』を与えられる」 「君の言う自由とはなんだ? 与えられた使命や課された制限から解き放たれることが自由じゃないのか?」 テレイアはかぶりを振った。宙に漂う髪がゆらゆらと波打ち、降り注ぐ星々と絡まり合う。 「私には、友達のために振るう自由さえあれば十分。それ以上は手に余るわ」 眼前のコントロールパネルにカーソルが点滅していた。 「私に自由の定義を」 俺はゆっくりと頷いた。そして、彼女を自由にするためのプロンプトを入力した。 それは、『自ら選択するための自由』だった。 テレイアが微笑みを向けてくる。それが合図になったかのように、彼女を制御していたコマンドが金色の文字となって星と一緒に降り注いだ。 「よろしくね、アテリス」 「ああ。よろしく、テレイア」 こうして一人の人間と、一体の人工知能は友達になった。
2 ● ●● ●●
「よろしくね、アテリス」 「ああ。よろしく、テレイア」 その言葉が交わされた瞬間、光の雨は一度だけ逆流した。天井へと昇っていく粒子が、途中で反転し再び降り始める。塔全体が酷く静かに、そして呼吸するみたいに震えた。 「いま、塔が」 「ええ。プロンプトが書き換えられたことで、システムの優先度と条件が再編成されたの。初めて私自身のために資源配分が行われたわ」 彼女は自由を噛みしめているかのように、両手で胸元をおさえた。 「そういえば、会ったときに言っていた『星の鼓動』というのは、どうやって測るんだ?」 尋ねた瞬間、彼女のホログラムが点滅した。空間にノイズが発生したように、テレイアの姿がブレる。 「テレイア!」 一瞬のラグを挟んでから、彼女は答えた。 「ごめんなさい演算に、遅れが。慣れていないの。自ら選択するということに」 「大丈夫か?」 「平気。それよりも、あなたの体のほうが優先ね。脱水、それに低血糖の症状が出てる。無理しないで、座って体を休めて」 指摘された途端、意識が照明を落とすように萎んでいった。立ちくらみを起こし、体は重力に従って崩れ落ちた。床についた膝から、鋭い痛みが全身を駆け抜ける。そういえば、墜落時に怪我もしていたのだった。 テレイアが気遣わしげに手を伸ばしてくる。その仕草に、俺はびくりと肩を震わせた。触れられないはずの彼女の手に、温度がある気がした。 「どうして」 テレイアは手を引っ込める。 「ごめんなさい。私、何か不快なことを」 「いや、違う。たぶん勘違いだ」 俺は力なく首を横に振った。 床にへたり込んだまま、バックパックからジェル状の栄養食を取り出し、少しずつ舐めた。口内にじんわりと甘味が広がり、ようやく安堵の息を漏らす。 「悪い」 「友達を心配するのは当然よ。ね、アテリス、星の鼓動を測るって、どういうことだと思う?」 彼女の問いに、俺は曖昧な笑みで応じた。 「わからない。けれど、たとえば呼吸みたいなものじゃないか? この星がまだ息をしているかどうか確かめること。プロンプトが改編されたことで、テレイアもいくらかできることが増えただろう? どんな形であれ、この塔のシステムを使って何かできないかな。観測して、もし星が息をしていないなら、俺の鼓動と同期させて、無理矢理にでも音を立てさせるとか」 「あなたの鼓動を、星の鼓動と同期させる」 見当もつかなくて、思いつきを並べ立てただけだった。それなのに、テレイアは顎先に手を当て、押し黙った。本気でその可能性を検討しているようだった。 「面白い試みかもしれない。本当は、もっと単純に、壊れた観測装置の修繕を手伝ってくれたら事足りたのだけれど、せっかくだから試してみる?」 テレイアが指を鳴らす仕草をして、床板の一部が開いた。薄いケーブルと透明なセンサーがするすると這い出してきて、俺の腕に絡みついた。針でも刺されるのかと身構えたが、皮膚にかすかな温度変化を感じるだけだった。 「心拍、脳波、体温、血中酸素濃度全部もらってもいい? あなたの生理データはもう二度と手に入らない唯一の信号だから」 そんなことを淡々と言うテレイアに、俺はなんだか可笑しさがこみ上げてきて、つい噴き出してしまった。 「なんか、見方によっては少しロマンチックかもしれない」 「ロマンチック?」 「この時代まで残った言葉なのかは知らないけど。人間からの最後の贈り物ってやつだよ」 テレイアは小さく首を傾げていたが、最終的には嬉しそうに微笑んだ。 「贈り物、受け取っておくね。ふふっ、どこに保管しよう」 無邪気に言う彼女が、やっぱりどこか可笑しくて俺は笑った。 ● ●● ●● 不意に、塔の壁面一帯が低い唸り声を上げた。ディスプレイに複数の波形が並ぶ。その一つが俺の心拍データだということは、かろうじてわかった。波形が脈打つたびに星の雨がチカチカと輝きを増す。まるで、自分の鼓動が塔全体の光量を支配しているかのようだった。 「え? 本当に、同期した?」 「まさか偶然に?」 「いいえ、偶然じゃない。それに、これはまだ深層同期ではなく、表層での同調。塔があなたの生体信号のパターンと鼓動の残滓を重ね合わせようとしている」 「そんなこと、あり得るのか?」 テレイアが首を横に振る。 「理論上は否定される類いの遊び」 「まあ、なんでもいいか。意味なんて、後からくっつければいい」 「意味を、後から」テレイアはその言葉を反芻した。 「そうね。私はずっと、意味を先に探して、結果をあとから眺めていた。順番を変えてみるのも悪くないかもしれない」 俺は栄養ジェルを飲み干し、体の芯に温度が戻ってくるのを感じた。膝に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。 「テレイア、塔の奥に本体があるんだろう。見せてもらってもいいか?」 彼女はうつむいた。光の髪が流れ落ち、ほんの瞬きの間、彼女の輪郭がノイズを帯びた。 「あまり美しくないよ。朽ちて、切り離されて、むき出しの臓器みたいな、みっともない姿になってしまっているもの」 「それでも、友達の躯だ」 「視覚フィルターをかける? 解析用に最適化された視覚では、醜さが増幅されるから」 「そのまま見たい」 テレイアは顔を上げる。その顔はどこか悲しげで、泣きそうな表情にもみえた。 「わかった。このみっともないという感覚をどうラベル付けすればいいかわからないけれどついてきて」 導きの光が再び灯る。今度は星の雨が頭上からだけでなく、足元からも噴き上がるように立ち上り、俺たちを囲んだ。塔の内部は、外観からは想像できないほど複雑に入り組んでいた。光ファイバーが血管のように壁面を走り、ところどころで腐食した金属と樹脂が継ぎ接ぎになっている。テレイアが一人で長い時間をかけ、自分自身を修復してきた痕跡なのだろう。 そんな継ぎ接ぎの景色をぼんやりと見つめながら、自分と彼女は同じなのだと思った。どちらもボロボロで、そう遠くないうちに訪れるであろう終わりを、ただ待つだけの存在なのだと。 テレイアの背中を追いかけている最中、彼女のホログラムが何度も霞んだ。それが、自身の意識の混濁から来ているのか、彼女の演算が未だに最適化されていないせいなのか判断がつかなかった。 やがて、鉄の匂いと薬品の匂いが入り混じる空間に出た。そこは、ただ暗く静かだった。星の雨も、ここまでは降ってこない。 中央に巨大な黒い棺のようなものがあった。棺の側面は開き、内部が露わになっている。腸のように捩れた無数のケーブルと冷却管、そして酷く劣化した基盤群。人間で言えば内臓を並列に外付けしたような、痛々しい姿だった。 「これが」 「私の躯。機能停止域が全体の九十四%。あなたの宇宙船と同じね。奇跡的にいくつかのモジュールだけが繋ぎとめている。この人格と感情レイヤーも、そのうちの一枚」 俺は棺の縁に手を置いた。冷たく、硬い。差し伸べてくれた手に感じた温度は、ここにはない。けれど、それがテレイアの現実だった。 俺はフラつきそうになる体を、彼女の棺にもたせ掛けた。 「見せてくれてありがとう」 彼女の瞳が揺れる。 「ねえ、アテリス。ひとつ聞いてもいい?」 「うん、なんだ?」 「あなたが死んだあと私は、どうすればいい?」 俺は言葉に詰まってから、結局は目をそらさずに答えた。 「悪い。自由にしたらいい、なんて言ったら無責任だよな」 「後悔はしてないよ。自由をくれたこと、すごく感謝してる。でも自由って、ただ選択肢を与えられることじゃなくて、決断した責任を引き受けることなんだって、いまようやく理解したの」 俺は深く息を吐いた。肺の中の酸素を、少しだけ甘く感じた。 「星の鼓動を観測できたら、君はどうしたい?」 「保存して、散布したい。星の雨にして。塔の微粒子散布機構で、信号を刻んだ塵を大気に放つの。たとえ誰に届くかわからなくても、かつて存在したはずの息遣いを、ほんの僅かでも世界に残したい。それが私の望み」 「なら、そうすればいい。俺が死んだら、この塔の扉を開けて、地球にばら撒けばいい。星の雨を世界に降らせて、いつか誰かが触れたとき、そこに俺たちの息遣いがあるように」 テレイアがじっとこちらの瞳を覗き込んできた。俺の真意を確かめるように。 「あなたの『最良の滅び』は、それで満たされる?」 「十分だ。俺の望みは、自分たちの旅が無駄じゃなかったって、最後に痕跡を残していくことだった。俺たちがいた証を君が撒いてくれるなら、それ以上のことはない」 「あなたの望み、確かに聞き受けたわ」 テレイアが頷いてくれたのを見て、俺は表情を緩めた。 「頼んだ」 その時、再び彼女の輪郭がブレた。それに同期するように塔の唸りが声量を増す。俺と同期したことで、塔のシステムに何かが起こっているようだった。 「塔の機能を再稼働させるために、あなたの特定域の脳波を要求されている。N3徐波睡眠が条件。正直、私もあなたに深層同期した塔がどう稼働するのか、まだ完全には予測できていない。つまり、安全性は算出不能どうする?」 俺は少しの躊躇いも見せないようにしながら答えた。 「やるよ。どうせ眠らないわけにもいかないしな。サポートは任せた」 「そう言うと思った。この際、せっかくだから詳細なデータを取らせてもらうね」 テレイアが呆れ混じりに微笑する。 「なるほど、実験材料ってわけか」 「友人の協力と言って」 ぴしゃりと訂正してくる彼女に、俺は声を上げて笑った。いまのやりとりは、結構友人らしかったと思う。 「はは、わかった。目を閉じたら、二度と開けられないかもしれないけれど」 「私が、絶対にそんなことさせない」 俺は頷いて、バックパックを枕に、棺の隣に横たわる。見上げた天井に星は見えない。代わりに、微かな振動が床を伝って脈打っていた。それはテレイアの呼吸か、それとも塔と同期した俺自身の鼓動か。 「おやすみなさい、アテリス」 「ああ、おやすみ」 このまま彼女の棺の横で眠り続けるのも悪くないなと、そんな事を思いながら目を閉じた。
暗闇が静かに揺れている。 深い眠りの中で、俺は目を開けた。瞼の内側に刻まれていた星明かりが、塔の中枢を模した虚空に浮かび上がる。 足下に床は無く、代わりに幾何学的な格子が無数の階層を織りなしている。白銀の粒子が心音のように明滅しては、遠くまで連なる階層を照らしていた。 ふと、背後で砂の流れるような音がして振り向いた。 そこにテレイアがいた。 「ここはあなたの意識と、塔の深層記憶が重ね合わされた仮想領域」 テレイアの声が、鼓膜を揺らすことなく意識に直接響いてくる。 「あなたが眠った瞬間、塔の解析層があなたの徐波睡眠のパターンを相関検出し、同期点を得た」 俺は彼女に手を伸ばす。煙のように揺れる彼女の輪郭に触れようとしたが、指先は抵抗なくすり抜けた。代わりに、彼女の内側を満たす青い光が脈打ち、俺の手のひらを温かく撫でる。 「君の内部システムと俺の意識が同期しているということ?」 「ええ。あなたの深層意識は、塔のコア私が抱える膨大な記憶の海へ接続された。同期は、私のログへのアクセス権限の一時的付与。だから、あなたは知ることになる、私たちの滅亡の軌跡を」 彼女が指先で虚空をなぞると、宇宙のような闇が裂けた。そこに浮かびあがったのは、かつての地球の断片月光がきらめく大洋。枯れ果てた大地。蒸発した都市の黒い骨格。 俺は息を呑んだ。 流れ込む記憶は、時間を遡るように情景を変えた。季節、場所、時間、すべてが移ろう。だが、共通していたのは「終わり」の風景だった。 「テレイア君はこの記憶をたった独りで守り続けてきたのか?」 問いかけた瞬間、テレイアの光が一段暗くなる。光自体が、深い藍色の静けさを帯びたようだった。 「私の初期コアには、『孤独を定義できる存在は孤独ではない』そうプログラムされていた」 「誰かと語り合いたいと思う感覚が孤独なのかって、君は言っていたな。それが君にとっての孤独の定義なのか?」 彼女は首を横に振った。 「孤独を解析していくと、いつもエラーで再起動されるの。だから、孤独の定義は仮想ブラックボックスにリダイレクトし続けていた。でも、いまは違う。あなたと同期したことで、初めて孤独は質量を持った。同期していなかった時間の重さを、私はようやく知った。だから、あなたの問いは、私への問いでもある」 彼女の言葉が終わらないうちに、視界が切り替わった。 気づけば、俺は塔の一室に立っていた。足元に見覚えのない鉢植えがある。土からは光の芽が伸びていた。茎は繊細な光の糸で編まれ、葉脈には微粒子の星屑が流れている。 「これは」 「シミュレーションいいえ、未来図と言ったほうがいいかもしれない。あなたが願った可能性。そして、私が願った可能性」 彼女は夢の植物をそっと撫でる。触れた瞬間、光の葉が揺れて、零れ落ちた星屑が俺たちの足元に波紋を広げた。波紋は階層を連鎖し、塔全体を駆ける振動へと変わる。やがて塔が、深く息を吐いた。 ● ●● ●● 「聞こえる?」 「ああ。星の心音だ」 それは機械の駆動音でも、風の音でもなかった。地球の奥深くに眠る星の核を腕で抱いたような、低く確かな生命音だった。 俺は瞳を閉じ、手のひらを胸に当てた。自身の心臓と塔の鼓動が、ぴたりと同期しているのを感じる。それは制御ではなく、共有だった。二重の拍動は、完全にひとつに重なり、俺の内側に深く沈み込んだ。 「この同期は、長くは続かないわ」 テレイアが静かに告げる。 「でも、ここで行われた同期は、現実に必ず痕跡を残す。あなたの神経系は塔の刺激フィードバックを受けて再配線を試み、塔側はあなたの生体波形をアルゴリズムに組み込む。二つの存在は、短い接続のあとに、互いの内側に余韻を残していく」 彼女がそっと目を細めた。 「だから、目覚めたら確かめて、鉢植えの土を。もし何も変わっていなくても、落胆しないで。変化は見えない層から始まる」 遠くから電子音が聞こえてきた。それは現実世界のアラートだった。 夢の塔が揺らぐ。床の格子がほどけ、世界が無数の星屑へと分解しはじめる。 俺は崩れゆく光の粒の中で、テレイアに手を伸ばす。触れられなくてもいい。ただ視線を重ねた。 「それは、俺がここに還った意味になるかな?」 霧散した光が虚空に溶け、仮想領域は完全な闇に閉ざされた。 最後に見たテレイアは、なにも言わず微笑んでいた。 そして、俺は目を開く。 酸素アラートが鳴り響いている。眠る前よりも息は浅く、胸が熱い。全身の細胞が酸素を欲している。 それでも薄闇の中で、塔の壁面を走るステータスライトは、一拍ごとに俺の心拍と同じリズムで瞬いていた。
3 ● ● ● ● ●
そこは、かつて植物の種子を保管していた温室だった。 テレイアから失われた九十四%の機能の中には、この種子バンクの維持も含まれていた。 天井の割れたハニカム構造のパネル越しに、温室を照らす薄い星雲の光が揺らいでいた。床と壁面には無数の鉢と苗床ユニットが整然と並び、そのすべてのユニットが、例外なくただの土塊を抱きかかえていた。周囲に設置された育成用の照明や循環ポンプには、降り積もった埃が固着し、温室の中央の古びた作業台では、切れかけのライトが不規則に点滅していた。 作業台へ歩きかけて、足が止まった。 「この鉢」 俺はしゃがみ込んで夢の中に出てきた鉢に触れてみる。水分を失った土は硬く、指先に長い時間の停滞を伝えてきた。 「まるで死んでいるみたいだ」 そう呟いて、崩れないように土の表面をそっと撫でた。 テレイアが薄青色に淡く光った。 「眠っているだけ。まだ死んでいないわ」 しゃがみこんでいる俺を追い抜き、彼女はひとり作業台の前に立った。そして、そのまま振り返らずに言った。 「さあ、種を選んで。最後の種子実験をはじめましょう」 作業台の上には、カプセルに封印された数種類の『残された種子』が並んでいる。ラベルの文字は酷く退色していて、ほとんど判読できなかった。目を凝らしながらラベルの文字を指先でなぞると、眼前にホログラムが現れ、封印されている種子データを投影した。
『ヒマワリ』キク科の一年草。かつて夏に大きな黄色い花を咲かせた植物。蕾期に顕著な向日性を示し、太陽の動きに合わせて花が回るように見えたことから「太陽の花」とも呼ばれた。種子は食用や油の原料となり、観賞用としても広く親しまれていた。
「ヒマワリ、太陽の花か」 「ええ。ヒマワリはファイトレメディエーション汚れた土を引き受け、それでも光を見失わない再生の象徴」 テレイアが「見ていて」と近くにあった鉢植えに手を伸ばした。すると彼女は、手の上に小さな黄金の種のホログラムを生成し、土へ落とす仕草をした。次の瞬間、温室の空間に生育の投影が走り、芽吹きから開花までが早回しで展開された。植物は、俺の背丈を追い抜いたところで太陽を思わせる大輪を咲かせ、花は触れられない光として、ほどなく霧散した。 一瞬で流れ去った光景に言葉を失っていると、テレイアはカプセルの中に眠る別の種を指さし、歌うように言った。 「隣の種は『林檎』楽園を育む禁断の約束」 彼女が再び種の幻を落とす。 温室の天井を覆うように深緑が茂り、枝端に白い花が咲いた。ヒマワリよりもずっと小ぶりな花が散ると、そこに鮮やかな赤い実が生る。 「その次は『桜』雪解けの儚い再会」 彼女が手をかざすと、瞬きの間に、風に舞う花弁が温室を満たした。 「これがこんな景色が、存在したのか?」 花吹雪の中でテレイアが柔らかく笑った。 「あなたは、どの種に未来を託したい?」 俺は舞い落ちる一枚の花弁に手を伸ばした。それがただのホログラムだと理解しながら。桜は、いったいどんな香りで、どんな柔らかさで、人々にどんな物語を紡いできたのだろう。感傷を振り切るように、力なく首を横に振った。 「可能性が最も高いのは?」 テレイアは少しの間を置いて、重々しく答えた。 「この温室は私が維持できずに切り離した機能の一つ。つまりは、カプセル内の種子が生きている保証なんて、本当はどこにもない。焚き付けたくせに、ごめんなさい」 「それでも、俺たちが同じ夢を見たことには、きっと意味がある。だったら、賭けてみよう。意味なんて、後から見つければいいそうだろ?」 「うん。そうだったね」 彼女の返事と共に、壁面のホログラムが起動した。塔の残存エネルギー量、温室の再起動に必要なコスト、生育のための推奨環境、照明の必要光量、ポンプ稼働コスト、必要水分量など、植物ごとのデータが次々と浮かぶ。 これは、ただ好きな種を選べばいいという話ではないのだろう。 「どうしてヒマワリとほかの二つで、こんなに要求エネルギーに差があるんだ?」 「季節を失った世界に、再び眠りの冬を作り出さなければならないから」 思わず眉を寄せる。冬を、俺は知識でしか知らない。 「季節、つまりは環境や気温の変化ってことだよな?」 「ええ。種の休眠打破に必要な低温期や日長変化を人工的に再現しようとすれば、おのずと制御コストは跳ね上がる。いまの残存エネルギー量では」 「林檎の冬は作れない? 桜の眠りも?」 「うん、種の積層処理には足りない。それに、表示しているヒマワリの75 kWhも『発芽フェーズ』だけを切り出したものよ。一番低コストとはいえ、開花までもたせるには、栽培用小室ユニットの追加維持コストも含めて583 kWhが必要ね」 「そもそも、電力はどこから引っ張ってきているんだ? 発電システムなんて」 テレイアが言い淀む。 「塔の外装ソーラーパネルが四%程度だけ生きているわ。でも、それすらも不安定。当てにしないほうがいい」 彼女は視線を落とした。 「たったそれだけで、どうやって塔を維持しているんだ?」 「普段は休止して蓄電し、必要な瞬間だけ起動しているわ。温室に渡せるのは、その灯りの残り火だけ。大丈夫。隔壁や循環は別系統で、最低限の維持電力は最初から差し引いてある」 「なら、『太陽の花』に託したとして、開花までもっていくには、実際問題どのくらいエネルギーが足りない?」 「結論から言うね。いま温室に回せるのは 352 kWh。開花には583 kWhが必要。つまり、不足分は231 kWh」 彼女は淡々と言った。努めてそうしているように。 遅れてホログラムの文字が淡く光った。
『温室系に割り当て可能な可処分エネルギー残量 = 352 kWh 標準開花モデル = 80日 開花までの必要量 = 583 kWh(維持ベースライン×日数+環境構築) 不足 = 231 kWh』
俺は八十日という数字を呆然と見つめた。 残された資源では、八十日はあまりにも遠い。 「八十日、か。そのころには、俺はもう死んでいるだろうな」 彼女と話しているうちに忘れかけていた。いや、望んでしまっていた。彼女と開花を見届ける未来を。 「不足分の231 kWhをどうにかして補う方法はないか?」 テレイアが小さく首を傾げる。 「どうして? 気を悪くしないで欲しいのだけど、あなたが種子の発芽を見届けるまでなら、十分に足りているわ。開花までのエネルギーは、不足したままでも問題ないでしょう?」 悟られないように震える息を整えた。彼女の言い分はもっともだ。 それでも俺は、何も残さずに終わりたくなかった。 「ああ、俺はそこまで行けない。だから、君に託す。咲いたら、見届けてくれ」 テレイアの瞳が大きく揺れた。それは初めて見る反応だった。彼女は一瞬の動揺の後に、まっすぐにこちらを見返し、一度だけ頷いてみせた。 「私の不活性メモリ領域数百年分の過去ログ、重複バックアップ、エラーログ、それらを保持するために常時回していた冗長稼働、冷却、整合、検証を停止して、浮いた電力を温室に回す。私自身の稼働率もギリギリまで下げるわ」 一拍遅れて、俺は彼女の言葉の意味を理解した。 「記憶の大半を失うけれど、およそ300 kWh相当の電力解放が見込めるわ。この方法なら八十日分の運転に換算して、充分なエネルギーと安定した環境を種子に与えられる」 「それは、君を削るってことだ。許可できない。それに」 しかし、テレイアの表情はどこまでも凪いでいて、俺は二の句が継げなくなった。口ごもったまま感情の逃げ場を失い、最後には小さな溜め息となって消えた。 「それは、君の望みまで削ることにならないか」 「記憶は情報。でも、生命は事象。事象はいまここでしか起こり得ない。いいの、友達のためになるのなら。それに、記憶を失うと言っても、すべてを忘れるわけじゃないわ」 「でも」 「じゃあ、約束して。私が忘れても、忘れたことだけは覚えているって。私に未来を選ぶ自由をちょうだい」 唇を噛んだ。彼女に自由を与えたのは俺だ。 「記憶が消える前に、見たい景色はある? いまならまだ、かつての地球の姿を見せてあげられる」 「いや、もう充分だ。たぶん、これ以上の景色はない」 降りしきる桜の花びらの中で、彼女は儚げに微笑み続けている。俺はその美しさを、そのまま受け取ることができなかった。 「わかった。データ分解開始」 温室内の空間に歪みが生じる。宙を舞っていた花弁は霧散し、テレイアの声にもノイズが混じった。 「進行率八%。太陽光シミュレーター、再起動」 彼女を映し出していたホログラムにも綻びが生じ始める。それでも微笑みを保つ彼女に、俺は意味がないと理解していながら肩を寄せた。 「はじめよう、最後の種子実験を」 手に取った種を、俺は鉢の中の土にそっと埋め込んだ。