『影が落ちるまで』

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 これまでずっと、私はあなたの足元で、あなたとともに生きてきた。  あなたが歩くたびに、私は揺れ、伸びたり縮んだりした。あなたが笑えば、私も弾み、あなたが泣けば、私もまたひっそりとうつむいた。  最初は自分が、あなたとまったく同じように生きていると思っていた。けれど、あるとき気がついた。あなたの人生と私という存在には、どうしようもない隔たりがあるのだと。  影には、夜という名の『休息』がある。太陽が沈むたび、私は静かな闇に溶けて意識を失う。目を覚ましたとき、あなたは少しだけ年を取り、ほんの少し、私の知らない顔をしている。私はいつだってあなたと共にあるはずなのに、なぜか時々寂しかった。  もしも、私にも自分だけの人生があったなら。  たった一度でいい。あなたと語り合いたい。  けれど、私はあなたの影だった。あなたがいなければ、私もまた存在しえない不確かなものだった。

 夕焼けの美しい日、診療所から帰ったあなたは、いつになくゆっくりと歩き、時折立ち止まりながら、懐かしそうに景色を眺めていた。あなたが道の草花を撫で、私の手もその草花の影を揺らした。  このときの私は、細く長く、地面に描かれた黒い柱のような姿だった。  かつては小さかったあなたの背中も、すっかり大きくなっていた。  ふいにあなたは呟いた。 「僕の人生は、なんだったんだろう」  あなたの手が、ポケットの中の診断書をくしゃくしゃに握りしめる。  私は、ただ足元で揺れていた。あなたは寂しそうに続けた。 「やり残したことばかりだ。もっと時間があればいや、きっとそれでも足りない。僕はなにを残せたんだろう」  口に出された言葉は、そよぐ風よりも小さかった。  そんなことを言わないで。  そう伝えたかった。  なのに、どうして私には、あなたと語り合うための口がないのだろう。  あなたの生み出したものの美しさを、誰よりも近くで見続けてきたはずなのに。  叶わない願いが、また一つ積み重なる。  もしも一度だけ、あなたに言葉を伝えられるなら。  いつしか、私は最初に伝えたい言葉を、何度も胸の内で繰り返すようになっていた。  大丈夫だよ。  たった、それだけの言葉を。  もしかしたらそれは、不確かな私が、誰かに言ってもらいたい言葉だったのかもしれない。  足元から離れられないまま、私はあなたの中へ、静かに溶けていくのを感じた。明日また目覚める保証はない。  それでも、ささやかな予感があった。今日の夕焼けは、私が見てきたどんな夕焼けよりも長い。  もしかしたら、今ならあなたに届くかもしれない。

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 診療所からの帰り道。不意に目尻の辺りに着地した一粒の水滴が、頬を伝って顎先から地面へと落ちる。  雨?  僕は落ちていった水滴の軌道を、遅れて目で追った。足元によく目を凝らさないと気づきもしないような、小さな染みができていた。そっと自らの頬に触れてみる。  頬から目元を指先で拭うと、なんだか泣いているみたいで、思わず苦笑した。  そんな感傷を振り切るように視線を上げた。  世界は真っ赤に染まっていた。  視界には、広大な河川敷と雲一つない夕焼け、そして真上には大きな橋があった。  近くで元気な子供の声がして、そちらを見ると、彼らは懸命に虫網を振り回していた。首に下がった虫かごの中には、何匹かの赤とんぼが閉じ込められている。  この天気で、雨が降るわけがない。  その時、ふと視界の端を白い物がゆらりと揺れた。  僕は吸い寄せられるように、橋の下から数歩踏み出して、上を見上げた。  橋の上には、欄干に掛かった白いビニール袋が揺れていた。歪に膨らんだそれは、薬が増え続ける僕の処方箋袋とそっくりだった。  その欄干の向こうに、一人の女性が立っていた。  意図せず目が合ってしまう。  彼女は驚いたように目を見開き泣いていた。  気づけば、口が勝手に動いていた。まるで、足元の誰かが喉にそっと手を添えたように。 「大丈夫ですよ」  彼女はいっそう目を見開いた。その拍子に、大きな瞳から再び涙が零れ落ちる。涙は夕日を反射しながら、音もなく橋の下まで落下した。  雨は確かに降っていた。 「あなたも、大丈夫だよ」  橋の上から降りてきた声は、風に乗って真っ直ぐ僕に届いた。慰めではなく、事実を告げているみたいだった。  こんな風に返されるとは思わなくて、曖昧に笑った。それと同時に、名前も知らないその人に、どこか懐かしさを覚えたのはなぜだろう。  不意に何かが軽くなった気がして、僕は反射的に足元を見た。  僕の頬を伝った涙と、彼女が落としたもう一粒地面には二つの小さな染みができていた。

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 二つの雫が、一つの影に落ちた瞬間、私は息の仕方を理解した。  橋の下で伸びたあなたの影と、橋の上から落ちてきた彼女の影が、夕焼けに照らされた地面の上で、一つに繋がっていた。  私は、その細い継ぎ目を伝って彼女に触れる。そうして、彼女の涙の理由を知ったとき、胸の奥にあった願いは形を得た。  私は二人の輪郭を借りた。声は、影の縫い目を伝って静かに響いた。 「大丈夫ですよ」  あなたの言葉が私に届く。 「あなたも、大丈夫だよ」  彼女の唇を借りて、私はようやく伝えた。  二つの声は、同じ言葉の連なりで、違う重みを持ち、同じ影に落ちた。  世界は、もう夕暮れを終えようとしていた。空には黒と群青が連なり、赤色の居場所は、そのグラデーションの端に僅かに残されているのみだった。  影の長さは、ほとんど夜と同じ。

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 再び橋を見上げたとき、彼女の背中が見えた。  立ち去ろうとする後ろ姿に向かって声を掛ける。 「待ってください。あなたは」  彼女は振り返り、泣き顔のまま寂しげに笑った。 「日が落ちる前に、足元に帰らないと」  そう言って、彼女は歩き去った。  追いかけようとして、足が止まった。  どうしてかは、わからない。僕は踏み出そうとして止まってしまった自分の足先を、ただぼんやりと見つめていた。  なにかを証明し損ねた人生だと思っていた。数少ない残せたものも、たったそれだけでは足りないと思っていた。  でも、懐かしい誰かが「大丈夫」だと言ってくれた。  僕は息を深く吸い、短く吐いた。胸の重みが、ほんの少しだけ質感を変える。  一人じゃないなら、もう少しだけ歩いてみよう。  今よりも靴底をすり減らし、一つでも多くの足跡を残せるように。  ようやく一歩を踏み出すと、大丈夫ですよと、背中に長い何かが寄り添った気がした。振り返ってみても、そこにはもう赤はない。賑やかだった声は遠く、影は夜に溶けて消えていた。  それでも、そよぐ風の音と落ちた雫の跡だけが、黄昏に濃く残っていた。

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 太陽が地平線に消える。僅かな赤が消え、私の時間はそこで尽きる。けれど、幸福だった。  たった一度だけでいいから語り合いたいその願いは叶った。  私たちの言葉は、深い影に落ちた。  夜の間に、あの涙の染みは薄くなり、何事もなかったように形を失うことだろう。それでも、踏みしめた一歩の感覚を、きっとあなたは忘れないでいてくれる。  意識が夜の闇と混ざり合って溶けていく。  もし二度と目覚めなかったとしても、あなたが歩く限り、私はあなたの中に、影として残り続ける。初めて口にした言葉の重みを、細い体に抱えながら。  だから、おやすみなさい。  そして、もし叶うならまた明日。