『小石の音を聴く』

 ある町の小さな診療所に、不思議な女性がいた。  人々は彼女のことを「音を聴く人」と呼んでいた。  彼女は小さな診療所の一室で、訪れた人の目を真っすぐに見つめながら、どんな話にも真剣に耳を傾けていた。それなのに、彼女のもとを訪れた人たちは一様に口を揃えて言った。 「彼女とは、目が合っている気がしない」と。  たしかに目は合っているのに、彼女は実際にその人の目を見ているわけではないようだった。もっと別の何かを見ようとしているかのようだと、彼女と対面した人の多くがそう感じていた。  ある日、ひとりの若い男性が彼女を訪ねた。彼はなにも話そうとせず、ただ診療所の椅子に座って俯いていた。彼女の方も彼に名乗ることさえ求めず、ただ静かにその時間を受け入れていた。  不意に、やわらかな沈黙の中に硬い音がひとつ紛れ込んだ。それは、床を小さなものが転がる音だった。  男性が音の方へ視線を向けると、いつの間にか二人の間の床に、一つの小石が落ちていた。  深い海を思わせる、藍色の石だった。  彼が首を傾げていると、女性の白い手が伸び、その美しい小石を拾い上げた。  彼女はそれを、海辺の貝殻から海の音を聴こうとするみたいに耳に押し当てた。  そうして目を閉じて耳を澄ませ、たっぷり一分近くそうしてから、そっと小石を耳から離した。  その瞬間、男性は目を見開いた。 「どうして」  彼の口から呟きが漏れる。  彼女は何も返さず、彼の驚いたような目を柔らかく見返していた。  やがて男性は、少しだけ和らいだ表情を浮かべて言った。 「僕のことなんて誰も理解できないと思っていました」  それだけ言うと、彼はまた黙り込んだ。  女性はすぐには答えなかった。石を手のひらに包んだまま、二人の間にある空間をじっと見つめていた。 「理解できる、とは言えません」  彼女の声はほとんど囁き声だった。だが、静かな診療所の一室では、それで十分だった。 「それでも、あなたの声にならない気持ちは、ここに残っていきます。だから、どうかそれを置いていってください。拾っておきますから」  彼は何も答えなかった。けれど、部屋を出ていくその瞬間まで、和らいだ表情が崩れることはなかった。  その日を境に、彼はときどき診療所にやってきて、なにも言わずにただそこにいるようになった。彼がその部屋へ通うようになったのは、たぶん彼女の言葉に救われたからではなかった。  彼は今までずっとなかったことにされてきた多くのものを、もう見過ごすことができなかった。  彼が訪れるたびに、診療所の窓辺には、言えなかった言葉の数だけ小さな石がひとつずつ増えていった。  そして季節が移ろった頃、彼は静かに微笑んでこう言った。 「小石の拾い方が、ようやくわかった気がします」  彼女も柔らかく微笑んだ。 「もう落ちたままではなさそうですね」  彼が帰った後も、椅子の前にはさっきまでの沈黙が少しだけ残っていた。しかし、それは以前までと同じ沈黙ではなくなっていた。  それからも、その不思議な女性を訪ねる人は後を絶たなかった。  怒りを抱えた人。泣き方を忘れた人。名前を捨ててきた人。誰もが自分の中に転がる小石の音を、彼女に聴いてもらうのだった。あるいは、彼女に聴かせてもらうのだ。  いつしか彼女の部屋の窓辺には、訪れた多くの人々の小石が並ぶようになった。色も形もばらばらで、綺麗なものばかりではない。それでも、窓から差し込む陽光に照らされて、小石は雨上がりの水滴みたいに輝いていた。  そのとき、扉の向こうで躊躇うような足音がひとつ止まった。  彼女は振り返り、まだ形のない沈黙に静かに耳を澄ませた。