作品
窓辺のいちばん端の石
静寂の観測所2 / 4
診療所の朝は、いつも静かだった。 正確に言えば音がないわけではない。古い床板の軋み、窓の外を通り過ぎる風、音は触れられそうな程近くにあるのに、こちらに語りかけてはこない。ただ、そこにあるだけだ。 私はその静けさの中で、窓辺に並んだ小石をひとつずつ観察する。 色も形も、大きさも違う。海で拾われたようなものもあれば、採掘されたばかりの水晶のようなもの、どこかの庭先から紛れ込んだとしか思えない石もある。そのどれもが等しく、言葉にならなかった何かの重さを宿している。 町の人々は、熱心に小石の音に耳を傾ける私を「音を聴く人」と呼んでいるらしい。 それが褒め言葉なのか、異質な存在への拒絶なのか、私は深く考えないようにしている。ただ、ここに来る人たちが、その呼び名に救われるなら、それでいい。
今日、最初にやってきたのは、怒りを抱えた男性だった。 椅子に腰を下ろすなり、彼は上司のこと、家族のこと、世界の不条理について、早口でなじった。その言葉は鋭いのに、どこか空っぽだった。 私はその声の隙間に落ちていくものを静かに拾い続けた。 やがて彼は息を切らし、力なく俯いた。 沈黙する彼の足元に、小さな音が転がるのを私は聴いた。 彼が出て行った後、私は拾い上げたひとつの小石を窓辺に置いた。 灰色に微かな赤が混じった石。その石は、怒りの形をしているけれど、触れるとひどく脆かった。
午後には、泣き方を忘れた男性が来た。 彼は終始、満ち足りた笑顔で近況を話した。仕事は順調で、人間関係にも満足していると。幸福だけを語りながら、彼は微笑の継ぎ目に、何度も目を伏せていた。 「泣く理由が、もう分からないのです」 たったひと言が、深く沈んだ。 今度は透明に近い小石を拾った。光に透かすと、ほとんど見えなくなってしまう石だった。
そして、その人が来たのは、午後の遅い時間だった。 陽はもう暗く、診療所の窓から差し込む光も、濃い金色になっていた。 扉がゆっくりと開き、静かに閉められた。まるで、音を立ててはいけないルールでもあるみたいに。 彼女はそんな風に現れ、私の前の椅子に腰を下ろした。おそらくは自分と同世代なのだろうが、仕草や表情のせいか正確な年齢がわからない。印象が掴めない女性だった。 彼女の足取りはしっかりしていて、背筋も伸びているのに、どこか重心が定まっていない感じがした。椅子に座るというよりも、寄りかかれる場所に身体を預けた、といった方が近かった。 「……話さなくても、いいですか?」 私は頷いた。それでいい、とは口にしなかった。その必要がないと思えたからだ。 彼女との時間は、沈黙からはじまった。気まずさはない。ただ沈黙の中に、密度の変化があるだけだ。 彼女は、両手を膝の上に置いていた。指先は僅かに震え、視線はゆるく組まれた手に向けられていた。震えの正体はわからない。けれど、私はそういう震えを何度も見てきた。 しばらくして、微かな音が鼓膜を揺らした。私はいつものように拾い上げた小石を見つめた。 灰色の半透明で、内側に針のような鋭い線が幾重にも走っている。一見すると表面は滑らかに見えるが、指先で撫でると、ところどころに微かな欠けがあり、完全には磨かれていない石だった。なにより、その石は、痛いくらいに冷たかった。 私はそれを耳に押し当てる。瞼を閉じ、耳を澄ませる。 音はすぐにはやってこなかった。ひたすらに沈黙を圧縮したような感触だけがあった。でも そこにいる。 なにも聞こえなくても、何かがあった。 私は数十秒目を閉じ続け、それから石を下ろした。 直後、女性が細い息を吐いた。 「……ずっと、重たいんです」 彼女は言った。 「何が、とは言えなくて。ただ……どこにいても、何をしていても、深海にいるみたいに」 私は相槌を打たなかった。否定もしない。書き留めることもしない。ただ、彼女の言葉が落ちていく場所に目を向け続けた。 「誰かに話すと、軽くなってしまう気がして……」 そこまで言って、彼女は一度だけ口元を押さえた。 私にはその仕草が、うっかり言葉にしてしまうことを防ぐためのものに映った。 「軽くなるのが、怖いんです。軽くなったら、なかったことにされてしまいそうで」 そのひと言の後、彼女はじっと押し黙った。 沈黙は、さっきよりもはっきりと形を持っていた。だからこそ、それは容易に拾えてしまったのだろう。 私は手に取った二つ目の石を見つめた。 今度は、真っ黒に近い石だった。表面に細かな孔が無数に空いていて、隕石や火山岩の欠片を思わせる見た目をしていた。一見軽そうなのに、持つと意外にずっしりしている。 耳に当てた瞬間、私は思わず石から手を離した。 床を打つ甲高い音が、静寂を破る。石は勢いよく転がり、彼女のつま先にぶつかったところで動きを止めた。 互いの視線が、床の一点に注がれる。 彼女は足元の小石を、壊れものを扱う手つきで持ち上げた。そして、珍しがることもなく耳に押し当てた。その一連の動作は、妙に彼女に馴染んでいた。 しばらくして彼女は目を見開き、驚いた表情で言った。 「……あなたも、ですか?」 私は否定も肯定もしなかった。彼女が確かめたかったのは傷そのものなのか、あるいは、もっと別のなにかだったのか。問われたものが一つではない気がして、咄嗟に返事ができなかった。 すると彼女は立ち上がって、窓辺の石が並ぶ一角に歩み寄った。 「このまま、置いていってもいいですか」 「ええ」 私が答えると、彼女は窓辺の石の中に、真っ黒な一つを加えた。置いた後も、彼女はその石から、じっと目を離さなかった。手から離れた石が、どこかへ消えてしまうことを本気で恐れている、とでもいうように。 陽光を受けても、石はほとんど光らなかった。細く伸びた影だけが、やたらと濃く見える。 私たちは、その光景を見たまま、長い時間、口を閉ざしていた。 やがて、彼女は一度だけきつく目を閉じた。そのまま石に背を向け、扉に向かって歩き出した。来た時と違い、診療所を去る彼女からは、しっかりと足音が聞こえた。
彼女がいなくなった部屋で、私は黒い小石の音を思い出していた。いまも、耳の奥で残響して離れなかった。 それは、空っぽだと思われている場所に、たったひとり耳を澄ませ続けた人の音だった。 私は、その音を知っている気がした。 視線が、窓辺のいちばん端にある石に向かう。 それは、ずっとそこにあった。誰かが置いていった石ではない。いつ、どうして拾ってきたのか、その記憶に触れることは、ほとんどその石の音を聴くことと同じだった。捨てることもできないまま、長い間、窓辺のいちばん端にそのままにしてきた。 夜、診療所の灯りを落とす前、私はその石を手に取ることがある。けれど、耳に当てたことは一度もない。手に取るたび、名前のない古傷だけが、胸の奥で僅かに痛んだ。聴いてしまえば、戻れなくなる気がした。 来る日も来る日も、誰かがここを訪れては、私はまた一つ小石を拾い、窓辺に並べる。 それでも、端の石だけは動かないまま。動かさないのだと、私は自分に言い聞かせている。 静けさの中で、拾われただけの音が、遠く微かに鳴っている気がした。 それを聴く日は、たぶん来ない。 それでも、朝になれば、また扉は開く。 私は窓辺の石を一つずつ眺めながら、次の沈黙を待ち続けた。