『窓辺のいちばん端の石』
診療所の朝は、いつも静かだ。 正確に言えば音がないわけではない。古い床板の軋み。窓の外を通り過ぎる風。耳を澄ませば、音は至る所に見つかる。それらは、触れられそうなほど近くにあるのに、決してこちらに語りかけてくることはない。ただ、そこにあるだけだ。 私はその静けさの中で、窓辺に並んだ小石をひとつずつ観察する。 色も形も、大きさも違う。海で拾われたようなものもあれば、採掘されたばかりの水晶のようなもの、どこかの庭先から紛れ込んだとしか思えない石もある。そのどれもが等しく、言葉にならなかった何かの重さを宿している。 町の人々は、熱心に小石の音に耳を傾ける私を「音を聴く人」と呼んでいるらしい。 それが褒め言葉なのか、異質な存在への揶揄なのか、私は深く考えないようにしている。ただ、ここに来る人たちが、その呼び名に少しでも救われるならそれでいい。
今日、最初にやってきたのは、怒りを抱えた男性だった。 彼は椅子に腰を下ろすなり、上司のこと、家族のこと、世界の不条理について早口でなじった。その言葉は鋭いのに、どこか空虚でもあった。 私は見過ごさないように、その声の隙間に落ちていくものに目を向け続けた。 やがて彼は息を切らし、力なく俯いた。 彼が長い息を吐き終わった瞬間、沈黙する彼の足元に小さな音が転がるのを私は聴いた。 彼が出て行った後、私は拾い上げたひとつの小石を窓辺に置いた。 灰色に微かな赤が混じった石。その石は、怒りの形をしているけれど、触れるとひどく脆かった。
午後には、泣き方を忘れた男性が来た。 彼は終始、満ち足りた笑顔を浮かべていた。 その表情通り、語った内容も、仕事は順調で人間関係にも満足しているといったものだった。それなのに、彼は幸福だけを語りながら、微笑の継ぎ目に何度も目を伏せていた。 「泣く理由が、もう分からないのです」 どことなく乾いていて、掠れた声だった。 満ち足りた表情のまま、口には淡い笑みさえ浮かべているのに、私にはその表情が泣き笑いに見えた。 今度は、透明に近い小石を拾った。光に透かすと、ほとんど見えなくなってしまう石だった。
そして『彼女』が来たのは、午後の遅い時間だった。 陽はもう暗くなり始めていて、診療所の窓から差し込む光も、濃い金色になっていた。 扉がゆっくりと開き、静かに閉められた。まるで、音を立ててはいけないルールでもあるみたいに。 彼女はそんな風に現れ、私の前の椅子に腰を下ろした。 足取りはしっかりしていて背筋も伸びているのに、なぜだか彼女からは、重心が定まっていないかのような印象を受けた。椅子に座るというよりも、寄りかかれる場所に身体を預けた、とでも表現した方が適切だろうか。 おそらくは自分と同世代なのだろうが、仕草や表情のせいか正確な年齢はわからなかった。ただ、どこか儚げで、作り物めいた雰囲気を纏った女性だった。 「話さなくても、いいですか?」 私は頷いた。それでいい、とは口にしなかった。その必要がないと思えたからだ。 彼女との時間は沈黙からはじまった。気まずさはない。ただ沈黙の中に、密度の変化があるだけだ。 彼女は、両手を膝の上に置いていた。指先は僅かに震え、視線は膝の上でゆるく組まれた手に向けられていた。震えの正体はわからない。けれど、私はそういう震え方をする人を、今までに何度も見てきた。 しばらくして、微かな音が鼓膜を揺らした。 私はいつものように拾い上げた小石を見つめた。 灰色の半透明で、内側に針のような鋭い線が幾重にも走っている。一見すると表面は滑らかに見えるが、指先で撫でると、ところどころに微かな欠けがあり、完全には磨かれていない石だった。なにより、その石は痛いくらいに冷たかった。 私はそれを耳に押し当てた。そして瞼を閉じ、耳を澄ませる。 音はすぐにはやってこなかった。ひたすらに沈黙を圧縮したような感触だけがあった。でも そこにいる。 なにも聞こえなくても、何かがあった。 私は数十秒目を閉じ続け、それから石を下ろした。 直後、女性が細い息を吐いた。 「ずっと、重たいんです」 彼女は言った。 「何が、とは言えなくて。ただどこにいても、何をしていても、深海にいるみたいに」 私は相槌を打たなかった。書き留めることもしない。ただ、彼女の言葉が落ちていく場所に目を向け続けた。 「誰かに話すと、軽くなってしまう気がして」 そこまで言って、彼女は一度だけ口元を押さえた。 私にはその仕草が、うっかり言葉にしてしまうことを防ぐためのものに映った。 「軽くなるのが、怖いんです。軽くなったら、なかったことにされてしまいそうで」 そのひと言の後、彼女はじっと押し黙った。 沈黙は、さっきよりもはっきりと形を持っていた。だからこそ、それは容易に拾えてしまう。 私は手に取った二つ目の石を見つめた。 今度は、真っ黒に近い石だ。表面に細かな孔が無数に空いていて、隕石や火山岩の欠片を思わせる見た目をしている。一見軽そうなのに、持つと意外にずっしりしていた。 耳に当てた瞬間、私は思わず石から手を離した。 床を打つ甲高い音が、静寂を破る。石は勢いよく転がり、彼女のつま先にぶつかったところで動きを止めた。 互いの視線が、床の一点に注がれる。 彼女は足元の小石を、壊れものを扱う手つきで持ち上げた。そして、珍しがることもなく耳に押し当てた。その一連の動作は、妙に彼女に馴染んでいた。 しばらくして彼女は目を見開き、驚いた表情で言った。 「あなたも、ですか?」 私は否定も肯定もしなかった。彼女が確かめたかったのが傷そのものなのか、もっと別のなにかだったのか、質問の意味が一つではない気がして、咄嗟に返事ができなかった。 すると彼女は立ち上がって、窓辺の石が並ぶ一角に歩み寄った。 「このまま、置いていってもいいですか」 「ええ」 私が答えると、彼女は窓辺の石の中に、真っ黒な一つを加えた。置いた後も、彼女はその石から目を離さなかった。まるで手から離れた石が、どこかへ消えてしまうことを本気で恐れているとでもいうように。 陽光を受けても、その石はほとんど光らなかった。細く伸びた影だけが、やたらと濃く見える。 私たちは、その光景を見つめたまま、長い時間、口を閉ざしていた。 やがて、彼女は一度だけきつく目を閉じた。 そして次に目を開いた時、そのまま石に背を向け、扉に向かって歩き出した。来た時と違い、診療所を去るその後ろ姿からは、しっかりと足音が聞こえた。
彼女がいなくなった部屋で、私は黒い小石の音を思い出していた。いまも、耳の奥で残響して離れてくれなかった。 それは、空っぽだと思われている場所に、たったひとり耳を傾け続けた人の音だった。 孤独で、寂しげで、救いようがない音。 私はその音を知っている気がした。 視線が窓辺のいちばん端にある石に向かう。 それは、ずっとそこにあった。誰かが置いていった石ではない。いつ、どうして拾ってきたのか、その記憶に触れることは、ほとんどその石の音を聴くことと同じだった。 夜、診療所の灯りを落とす前、私はその石を手に取ることがある。耳に当てたことは一度もない。それでも、手に取るたび、胸の奥深くにある古傷が鋭く痛んだ。その痛みには、一度でも耳を澄ませば、何かが決定的に壊れてしまいそうな危うさがあった。 これまでに何度、その石を捨ててしまおうと思ったことだろう。 けれど、結局は捨てられなかった。 そうしている間にも、誰かがここを訪れては、私はまた一つ小石を拾い、窓辺に並べていく。 石が増えていく窓辺の中で、その石だけが変わらず同じ場所に置かれ続けていた。 きっとこれから先も、それは変わらないだろう。 私は窓辺に歩み寄って、いちばん端の石に微かに触れた。静けさの中で、ずっと遠ざけられてきた音が、微かに鳴っている気がした。