『文字の海に、星座を探して』
わたしには、文字が波のように揺れて見える。黒板の字も、スマホの画面も、本の背表紙さえも、目を向けた途端に波立って、意味を捉える前に攫われていく。けれど、先輩だけは、いつだってはっきりと見えた。 放課後の廊下を走った。きっと今日も、先輩は地学室にいるはずだったから。 地学室の扉は開いていた。 わたしは、入口の前で手に持った封筒を胸に押し当てながら、何度も深呼吸をした。息を吸うと、古い紙と埃の匂いが鼻腔を掠めた。放課後の校舎には人の声がまだ残っているのに、この部屋の前だけは、時間が少し遅れているように静かだった。 最後の一呼吸のあとで、そっと地学室に足を踏み入れた。 教室は、暖かな夕陽で満たされていた。窓際には古い天球儀が置かれ、読めない星座の名前が細い線の間で滲んでいた。その隣で先輩はノートを広げ、手に持った小さな水晶を観察しては何かを書き綴っている。 時折、先輩は水晶を耳に押し当て、そこに閉じ込められた音を探すみたいに目を閉じていた。その姿に、わたしは思わず見とれてしまった。 そういえば、初めて先輩に出会ったのも、こんな放課後の地学室だった。 あれは一年生の春、国語の小テストが返された直後のことだ。わたしは返された真っ白な答案を、ぐしゃぐしゃになるのも構わずに机の中に押し込んだ。 その時、クラスメイトの囁き声が聞こえた。 「本当に読めないみたい。真っ白だった」 急に教室中の音が遠くなった気がした。それなのに、囁き声だけは聞こえ続けて、耳を塞ぎたくなった。 授業が終わるなり、わたしは人のいない場所を探し求めて、フラフラと学内を彷徨い歩いた。今すぐにでも、音のない場所に逃げ込みたかった。 階段を上がると、廊下の奥の扉が半分だけ開いていて、そこから夕陽がこぼれていた。札には『地学室』と書いてあったのだと思う。文字は読めなかったけれど、地球儀の絵が小さく貼られていたから、そうだとわかった。 その教室の中に先輩がいた。 先輩は天球儀をゆっくり回していた。球の上に引かれた線が、夕陽を受けて光ったり消えたりしている。 わたしが入口で固まっていると、先輩は顔を上げた。 「もしかして、入部希望?」 静けさに溶けるような落ち着いた声だった。わたしはすぐに答えられず、一拍遅れて小さく首を横に振った。 「いえあの、少しだけ、ここにいてもいいですか」 自分でも、どうしてそんなことを言ったのかわからない。先輩は天球儀から手を離し、椅子を一つ引いた。 「いいよ。この教室、放課後はたいてい空いてるから」 机の上には、星座早見盤と、何種類かの石が並んでいた。石のそばには小さな紙も置かれていたけれど、そこに書かれた内容は読めなかった。石の名前だろうか。見つめていると、先輩が少し首を傾げた。 「石、好き?」 わたしは咄嗟に答えられなかった。石が好きかどうかなんて、考えたこともない。 「じゃあ、星は?」 「嫌いでは、ないです」 「そっか」 曖昧な受け答えしかできなかった。それでも、先輩は気にした様子もなく、傍らの天球儀にもう一度手を置くと、ゆっくり回し始めた。 「不思議だよねどうして、遠く離れた過去の光を繋ぎ合わせようと思ったんだろう。夜空に線なんてないのに。石もそう。時間をかけて成長した結晶に、誰かが意味や価値を見出した」 同意なんて求めていない、ほとんど独り言みたいな言い方だった。 先輩の指が点と点を結んでいく動きを、わたしは不思議と目で追っていた。星座の名前は読めなかったけれど、先輩の指先がたどった線だけは、はっきり見える気がした。 「いま、その誰かと同じことをしているように見えますけど」 その一言で、先輩の星座をたどる指先が止まった。かと思うと、顎に手を当て、じっと考え込んでしまった。 思いつくままに口にした一言を、わたしは後悔した。それは、なにか綺麗なものを台無しにしてしまったときの感覚に似ていた。 沈黙に耐えかねて、窓の外に視線を向けていると、唐突に先輩が言った。 「ねえ、手を出して」 わたしは困惑しながら、おずおずと手を差し出した。次の瞬間、ひんやりとした重さが、手の中に沈んだ。手のひらの上には、先輩が置いた小さな水晶が輝いていた。 「星は遠すぎて触れないけど、石なら触れるから。そのことに、意味があるかどうかはわからないけれど」 先輩はそう言って、静かに微笑んだ。 不思議な人だ。その笑い方には、妙な安心感があった。それだけで、ここにいることが許されたかのように、わたしは息がしやすくなった。先輩からすれば、ただ気まぐれに、自分の世界の片隅をそっと見せてくれただけのことかもしれないのに。 地学室に通うようになったのは、そんなどこにでも転がっていそうな放課後のことだった。 過去の夕陽と、現在の夕陽が重なる。 気づけば、わたしは手に持っていた封筒を握りつぶしていた。 文字が書けないなら、言いなさい。 かつて、母は厳しくそう言った。たぶんそれは、わたしを傷つけようとして出た言葉ではなかった。 けれど、言葉にすることと、手紙を渡すことはまるで違う。わたしは紙の上に言葉を『置く』という行為に焦がれていた。だって、紙に置かれた言葉は、あとから誰かに触れてもらえるから。先輩が手に持っている水晶のように。 先輩の姿を前にして、わたしは思ってしまった。 こんな手紙では、触れてもらうのにふさわしくない。 握りつぶした手紙は、わたしの手で書かれたものではなかった。 何度も音声入力で下書きをつくり、姉に頼んで清書してもらったものだった。きっと、姉の字は読みやすいのだろう。便箋に浮かぶ文字の滲みは、ひどく整然としていた。だからこそ、その真っ直ぐさは、わたしの瞳の中の揺れとは似ても似つかない。 わたしは、小さな水晶と真剣に向き合っている先輩に背を向けて、音もなく地学室を後にした。
限局性学習症渡された診断書には、そう書かれていたらしい。医師からは、読字と書字に困難を伴う、ディスレクシアとも呼ばれるものだと説明された。けれど、わたしにはその診断名すら滲んで見えなかった。 とはいえ、どれだけ学業や生活に支障があったとしても、わたしはたぶん恵まれていた。周囲には理解を示して助けてくれる人もいたし、誰かにひどく傷つけられた記憶もあまりない。どちらかといえば、一人で勝手に傷ついてばかりいたように思う。 学校では、板書を写さなくてもいいことになっていた。授業の資料も、あとから音声で聞けるようにしてもらっている。それでも、黒板に並んだ文字をただ見つめるしかない時間は、いつも息苦しかった。 隣の席の子は、黒板の文字を迷いなくノートに写していくのに、わたしの机のノートだけが、真っ白なままだった。教室中から聞こえる紙をめくる音とペン先が擦れる音が、耳にまとわりついて離れなかった。 わたしにとって文字とは、形のないものだった。視線を合わせた瞬間から、それは瞳の中で崩れてしまう。漢字はほどけない糸のように絡まり合い、ひらがなは地面を歩く蟻のようにうごめいて見えた。すべての文字が、わたしが追いつく間もなく消えていく。 手紙を渡すことなく家に逃げ帰ったわたしは、帰り着くなり自室に引きこもった。そして、スマートフォンに向かって、音声入力で文章を打ち込みはじめた。 「先輩が持っている水晶のように」 変換ミスがないかを耳で確かめる。 『先輩が持っている推奨のように』 イントネーションが違う気がする。機械は、きっとわたしの声を誤変換している。でも、変換された文字が本当に正しいのかどうかが、わたしには見てもわからない。結局、疑わしさが喉元までせり上がってきて、画面の文字をすべて消去した。 そうして、画面を真っ白にしては、最初から言い直した。ゆっくり、滑舌よく。まるで画面に向かって、演劇の練習でもしているみたいに。 けれど、どんなに言葉を尽くしても、わたしの目に映るのは、画面いっぱいの黒い蟻の行列だった。自分の口から出た言葉だというのに、文字にされた瞬間、それはわたしの言葉ではなくなってしまう。 不意にノックの音が響き、返事をする前に扉がゆっくりと開いた。 「まだ寝ないの?」 振り返った先で、姉が心配そうな顔でこちらを見ていた。その柔らかい声は、姉のたれ目によく似合っている。 「うん」 「また代わりに書くから、無理しなくていいんだよ」 わたしは、視線を机の上のスマートフォンに向けた。 真っ白な画面に、消したはずの言葉の残骸が、まだ傷跡のように残っている気がした。 「代わりじゃ、だめなんだよ」 はっきりした否定の言葉なのに、声には少しも力が入らなかった。 「でも、無理して書いても辛いだけでしょう? できないことを認めるのは、なにも恥ずかしいことじゃないんだから」 姉の言葉は、たぶん正しかった。それが心底わたしを気遣っての発言だということも、痛いくらいにわかっていた。それでも、まだ 「もう少しだけ、頑張ってみたい」 わたしがそう言うと、姉は呆れ混じりに笑った。 「ほんと、しょうがないなあ。手伝えることがあったら言ってね」 閉まった扉に向かって、わたしは「ありがとう」と呟いた。 それからは、ひたすらに机に広げた便箋と向き合った。震える手でペンを走らせ、スマートフォンの画面と比較した。やはり、見本にした文字と、自分が書いた文字の違いは、どれだけ見つめてもわからなかった。わからないのに、致命的に間違っていることだけはわかった。 文字は、わたしを拒むくせに、どうして手紙なんてものに憧れを抱かせるのだろう。 このままでは、わたし自身が読めない手紙を渡すことになる。この手紙にだけは、そんなことをしたくなかった。 それに、わたしは言葉というものに一度だけでもいいから手触りを感じたかった。先輩が水晶の音に耳を澄ますように、わたしも自分の内側にあるものに、きちんと耳を傾けたかった。 しかし、どれだけ願っても、手紙が完成することはなかった。
気づけば一週間が過ぎていた。 寝る間も惜しんで、手紙を書くことに没頭した。そうしてわかったのは、わたしにはどう足掻いても書けない、ということだけだった。そんなこと、とっくに知っていたはずなのに。 陽が暮れかけた道を、俯いて歩いた。駅までの道には黄色いブロックが続いている。いつもはただの模様にしか思っていなかったけれど、その日は地面の黄色がやたらと目に付いた。 そうして辿り着いた駅のプラットフォームで、わたしはそのアナウンスを聞いた。 『点字ブロックの上には、荷物を置かないでください』 一拍遅れて、顔を上げる。 「てん、じ」 たった三音を唇でなぞる。 言葉自体は知っていた。それは駅にも、歩道にも、公共施設にもある。けれど、今まで自分とは関係がないものとして、意識の網をなんの抵抗もなくすり抜けていた。 わたしはホームの端に移動して、点字ブロックにそっとつま先をのせた。ローファー越しに凹凸を確かめる。波にさらわれてしまう黒板の字と違って、これは消えない。感触がちゃんとある。 「『てんじ』について教えて」 スマホに向かって尋ねると、読み上げ機能が、自然な合成音声で答えた。 『紙面に突起した点を、一定の方式で組み合わせて表した文字。指先で触れて読む』 本来、点字は視覚で読むことが難しい人のためのものだ。でも、わたしの瞳の中の波から逃れるには、触れるしかないような気がした。 わたしはもう一度、靴の先で凹凸に触れた。文字を目だけで受け取ろうとする必要はないのかもしれない。現に、言葉は音で届く。そのことに疑問を抱いたことはなかった。 感覚的なものを、言葉に翻訳することができればそう思いついた瞬間、わたしは俯いていた顔を上げた。 見上げた先の空に、淡く一番星が瞬いていた。
翌日、ひどく緊張しながら図書室に向かった。 そして、一歩踏み込むなり、立ち眩みを起こしそうになった。視線を動かすたび、活字が濁流になって、焦点をさらう。文字が多いところでは、いつもそうだった。 棚の背表紙が、一斉にこちらに視線を向けてくるような居心地の悪さを覚えながら、受付の司書さんに声をかけた。 「すみません。点字の本は、どこにありますか?」 わたしは簡単に自分の事情を話した。声をひそめて。説明は用意してきたはずなのに、口が強張ってうまく話せなかった。 司書さんは少し驚いていたけれど、穏やかに笑って、「こっちですよ」と本の前まで案内してくれた。 手渡された本を開くと、厚い紙に、雨粒が逆立ちしたみたいな点が並んでいた。指でそっと撫でると、冷たい粒が規則的に続いて、指先に点のリズムが余韻となって残った。 その手触りに興奮して、わたしは本から顔を上げた。 「あのっ、点字を書くための道具は、どこなら手に入りますか?」 司書さんはわたしの勢いに苦笑しながら、人差し指を口の前に立てた。 「すみません、大声出して」 「大型の書店とか、福祉用品を扱っているお店なら、見つかるかもしれませんね。急ぎなら、ネットで取り寄せるのが早いと思いますよ」 「探してみます。ありがとうございました」 わたしは深々とお辞儀をした。そのまま本を抱えて立ち去ろうとすると、笑いながら呼び止められた。 「本の貸出手続きはしていってくださいね」 「すみません」 頬が熱くなった。けれど、わたしは本を抱える腕に力を込め、口元だけで微かに笑った。
数日後、届いた点字盤と点筆を机に広げた。 あの日、図書室から出た後、近隣の店を見て回ったけれど、点字盤も点筆も見つからなかった。ネットで注文しようにも、わたしには漂っている画面の内容を捕まえることができなくて、結局は、また姉に手伝ってもらった。 けれど、これでようやく始められる。 音声入力で「点字、基本」と検索し、点字の法則を一つずつ学んでいく。 点字の一マスは六つの点。左の列が一、二、三。右の列が四、五、六。 一文字打つごとに、音声機能がついた点字表を開き、合っているかどうかを確認した。 「あ」は一の点。「り」は一、二、五の点。 画面の文字は相変わらず曖昧だったけれど、読み上げられた点の番号なら、なんとか耳で追うことができた。 それでも最初は、ばらばらな凹凸にしかならなかった。耳で覚えた点の並びを、そのまま打てばいいわけではなかったのだ。点を打つのは紙の裏側からで、読む面は鏡映しのように反転する。 紙を裏返しては紙面をなぞり、打ち込んだ凹みが、ちゃんと読むための点になっているかを何度も確かめた。 ひたすらに点筆を紙に押し込みながら、わたしはいつしか祈っていた。この点の手触りに、意味が宿りますように、と。 そうして、いちばん伝えたい言葉を打とうとしたとき、手が止まった。 言葉にすればたった二文字でも、それを触れられる形にしようとした途端、わたしは躊躇ってしまった。口にするよりも、それはずっと重かった。 ふと先輩の顔が思い浮かんだ。天球儀を回す指先、俯きがちに水晶を耳に当てる横顔、地学室に溶ける静かな声音。気持ちを伝えることは、その全部を線で繋いで、ひとつの星座だと言い張ることに似ている気がした。 線なんてこちらが勝手に引いているだけなのだから。 手を止めたまま便箋をじっとみつめていると、ノックの音が聞こえた。また姉が覗きにきたのかと思っていると、聞こえたのは母の声だった。 「入るわよ」 母は湯気の立つマグカップを手に、部屋に入ってきた。ふわりとカモミールが香った。母がいつも寝る前に飲むお茶だった。 「また、こんな時間まで」 母が浮かべていた表情は、姉よりもずっと険しくて、わたしは目を逸らした。けれど、母は構わず歩み寄ってきて、こちらを見下ろしながら言った。 「指、赤くなってるじゃない」 言われて初めて気が付いた。遅れてじんとした鈍い痛みがやってくる。 母は眉間の皺をさらに深めて言った。 「ここのところ、ずいぶん無理してるでしょう?」 こんなふうに、心配の言葉を向けられるのはめずらしかった。母の言葉は、いつも叱っているみたいな言い回しだったから。 忘れ物をすれば「次は確認しなさい」、読めなければ「言いなさい」、無理をすれば「早く寝なさい」。だからわたしは、差し出された心配をどう受け取ればいいのか、少しだけ戸惑った。 でも、結局は胸に湧いた温かさを持て余すように、小さく笑った。 「うん、無理してる」 正直に答えると、母は一瞬面食らったように目を瞬かせ、すぐに元の険しい表情に戻った。母に素直になれなくなったのは、いつからだろうか。そう思った瞬間、思わず苦笑していた。素直じゃないのは、たぶんお互い様だった。 「でも、やめたくない」 母は、しばらく無言でこちらを見つめていたが、不意にふっと表情を緩めた。 「そう」 長い沈黙のあとで、口にしたのはたったそれだけだった。許可でも応援でもなかった。けれど、止められなかっただけでも、今のわたしには十分だ。 便箋だらけの机の隙間に、母がマグカップを置いた。 「今日は、これを飲んだら寝なさい」 「え、これ、お母さんのじゃ」 「学業は疎かにしないこと」 ぴしゃりと遮って、母は部屋を出ていった。 わたしは呆然と扉の方を見つめていた。それから遅れて、ふふっと噴き出した。それは決して大笑いではなかったけれど、しばらく収まらなかった。 気持ちを落ち着けるためにカモミールティーに口をつけてみても、体が温かくなるばかりで、眠気はいつまでたっても訪れなかった。 眠れないなら、仕方がない。 わたしはマグカップを空にして、再び点筆を手に取った。 それから、何度も紙を替えた。痛む指先で紙面をなぞった。文字にすれば短いはずの言葉が、点の列になるまでには、長い夜を必要とした。それでも、体はまだ温かい。 最後の一枚を打ち終えたとき、窓の外は白みはじめていた。 紙を裏返して確認した。点の高さは不揃いで、列もわずかに曲がっている。読みやすい手紙でもなければ、綺麗な手紙でもない。でも、これはわたしの手で書いたものだった。 祈るように目を閉じて、ゆっくりと点をなぞった。 暗い瞼の裏側に、点の並びが浮かんだ。なんだか星座みたいだと思った。すると、天球儀を回していたときのように、先輩が点字をなぞる姿までもが思い浮かんだ。 そうして、打ち終えた手紙に触れた瞬間、わたしは初めて言葉というものの実体に触れられた気がした。
さらに数日後、また図書室へ行くと、わたしは司書さんに借りていた本と一枚の紙を手渡した。 紙には点字で「ありがとうございました」と書いてある。練習した中で、いちばん綺麗に打てたものを選んだ。それでも、渡した直後に感じたのは、胸が押さえつけられるような不安だった。 もしかしたら、間違っているかもしれない。読んでもらえないかもしれない。そもそも、これはお礼と呼べるほどのものではないのかもしれない。そんな考えで、思考が埋め尽くされた。 それを受け取った司書さんは、目元をやわらげながら「お手紙ありがとう。あとでゆっくり読ませてもらいますね」とささやいた。 その笑顔を見て、ようやく緊張が解けたように唇の隙間から細く息を吐いた。 わたしは不意に泣き出しそうになるのを、必死にこらえた。 わたしにも手紙が書ける。読めないままじゃなく、触れられる言葉で。 最初に練習したのは、『ありがとう』だった。それが真っ先に伝えたかった、一番星みたいな言葉だったから。
地学室を訪れたのは、二週間ぶりのことだった。 綺麗な水晶を片手に、何かの本を開いていた先輩が、顔を上げて微笑んだ。 「久しぶり。最近、来なかったから心配してたんだよ?」 そう笑いかけてくれる先輩に、わたしは笑顔を返す余裕なんてなかった。 先輩の笑顔がみるみる曇っていく。 「どうかした? もしかして具合、悪い?」 うるさいほどに心臓が早鐘を打っている。その鼓動が先輩に聞こえてしまうのではないかと本気で心配した。そして、少しくらいは聞こえてほしいとも思った。 わたしは震える手で、体の後ろに隠していた手紙を差し出した。 「先輩これ、受け取ってください」 声はひどく掠れていて、自分の声なのに妙に遠く感じた。 先輩は小首を傾げ、封筒を受け取った。それから、取り出した便箋を静かに広げた。夕陽を浴びた瞬間、刻まれた点が星のように瞬いた。 先輩は驚きつつも、次の瞬間には、指先でわたしの点の列をゆっくりとなぞり始めていた。その指先の動きは、やっぱり星座を結んでいたあの動きとそっくりだった。 わたしの拙い手紙は、きっと伝わらない。それでも構わなかった。 「これ、点字だよね?」 「はい」 先輩は眉を寄せ、静かに目を伏せた。 「ごめん。読めなくて」 わたしは首を横に振った。 「触れてくれただけで、十分です」 先輩は手紙に目を落としたまま、優しく表情を緩めた。 「でも、ちゃんと伝わったよ」 「え?」 「そんなふうに渡されたら、読めなくても、これが大切な手紙だってことはわかるよ」 先輩は、わたしの手を取り、確かめるように指先を握った。 「わたし、ほんとうは」 続きが喉の奥でつかえて、声にならなかった。一度でも形になってしまったら、もう戻れない気がした。 先輩は真剣な目で、わたしの指先を握ったまま、その手に力を込めた。すり切れた指先が、まだ痛んだ。 「いいよ。いまは、ここまでで」 拒むわけでも、急かすわけでもない。その距離感に、張りつめていた糸が綻んだ。こらえきれなくて、涙が頬を伝う。 わたしが小さく頷くと、先輩は便箋を丁寧に折り、封筒に戻した。その直前、指先で一度だけ点字をなぞった。そこに星が並んでいることを、確かめるみたいに。たったそれだけの仕草で、わたしの祈りは無駄ではなかったのだと思えた。 「少し待ってて。ちゃんと読めるようになってから、返事をしたいから」 意味を理解して、顔が熱くなった。それでも、わたしは泣きながら、やっとのことで笑った。 「はい。待っています」 やわらかな沈黙が、点字みたいに指先に触れた。
あれから、日常は何事もなかったみたいに戻ってきた。 チョークの音は、今日も遠い。黒板の文字は相変わらず波のように漂ったままだ。わたしだけが真っ白なノートを広げ、揺れる文字の列をただ眺めている。 けれど、あの点字の手紙を書いてから、わたしの世界は少しだけレイアウトが変わった。 診断名が変わったわけでも、世界が急に親切になったわけでもない。それでも 点と点は、結べる。 六つの点は、わたしの星座になった。読めないままだった世界に、触れられる言葉がひとつ増えた。 わたしは今日も揺れる黒板を見つめながら、見えない点と点を、そっと結び直してみる。文字の海に、星座を探して。