記録
美と創作についての手記
短い考察
私が美しいと思うものには、たいてい時間が深く沈んでいる。
星の光も、石の層も、深く考えられてきた言葉も、誰かが長いあいだ抱えていた作品も、いま目の前にあるものというより、そこへ至るまでの時間ごと、そこにある気がしている。
少しだけカントの言い回しを借りるなら、私はもの自体を見ているのではなく、そこに残った時間の痕跡や残り香のようなものを見ているのかもしれない。
たとえば、星の光が美しいのは、純粋に光が美しいからだとか、遠いからというだけではなく、それがすでに過ぎ去った時間を運んでくるからだと思っているし、鉱物や岩石に惹かれるのも、ただ鮮やかで硬く静かだからではなく、人の枠とは大きく外れて、長いあいだ形を保ち続けてきたものだからなのだと思う。
それと同じように、作品に費やされた時間も、目には見えないはずなのに、ときどき実際に手触りを感じるような「質感」として触れてしまうことがある。 美しさと呼んでいるものの一部は、その沈黙に近いのではないかと思う。
だから私は、瞬間の輝きより、長い時を耐えてきたものの静けさに、目を奪われやすい。
理性は、そのための道具なのだと思う。境界を見定めるための。 世界を美しく見るためというより、見誤らないために。溶け込みすぎないために。 輪郭を保ったまま、冷たさや残酷さから目を逸らさないために。
けれど、そうやって現実を直視するだけでは、前へ進めないこともある。 そういうとき、私を動かしているものをロマンと呼ぶのかもしれない。 ロマン主義と神秘主義。 それは現実の否定ではなく、現実の直視だけでは届かない何かを見ようとする行為に近い。
私のロマンと神秘は、きっと空間より、時間的な距離の方にある。 まだ手の届かない未来よりも、すでに過ぎてしまったもののほうに、強く惹かれるからだ。 過去の光、過去の地層、過去の思索。 失われても、なお何かを放ち続けているもの。手触りを感じさせるもの。 まるで、過去から届いた手紙のような、そういうものに、美が宿る気がしている。 そういう意味では、神秘という言葉も、私にとっては、わけのわからないものではなく、また、説明を放棄するための言葉でもない。 むしろ、見えるところまで見たあとで、なお残る深さと不可思議さを、軽々しく言い換えないための言葉に近い。 畏怖ではなく、畏敬。 圧倒されるというより、自分のスケールでは測りきれないものの前で、静かに黙する、といった感じだろうか。
とりわけ、自然や宇宙にそれを感じることが多い。そして、芸術や哲学に対しても、同じ種類の畏敬を覚えることがある。 人間がつくったものなのに、人間ひとりの大きさでは受け止めきれないものとして。
そういう意味では、私は人間的なものも、どこか自然現象として見ているのかもしれない。 感情も、関係も、死も、特別な悲劇である前に、まずは世界の中で起こる現象として存在している。
それこそ、死について考えるとき、私の中に最初に来るのは、恐れや怒りより、静けさに近いものだ。 凪、とでも言ったほうが適当かもしれない。 悲しみや寂しさを覚えるのに、どこか秩序めいた美しさが、そこにはある。
それが正しい理解なのかどうかはわからない。 ただ、死を過剰に意味づけるより、ひとつの現象として見つめたときにだけ現れる静けさが、確かにある気がしている。
私の創作も、おそらくは、そのあたりから生まれている。 星、石、沈黙、手紙、塔、残響、遠いもの、届かないもの、すでに過ぎたはずなのに、まだここで感じ取れるもの。 そうしたものを書きたいのは、それらが美しいからだけではなく、それらの中にだけ見える時間の残滓が消えてしまう前に、この手で残しておきたいからなのかもしれない。
私は、理性で見つめ、畏敬で受け取り、ロマンでそこへ向かおうとしているのだ。 一見、相反するようでいて、全てが繋がっていて、どれ一つとして手放せないもの。
美とは何か、と問われたら、まだうまくは言い表せない。 けれど少なくとも、時間が通り過ぎたあとにしか残らない静けさのようなものに、私は長く目を留めてしまう。いまはそれを一つの結論ということにしておく。