記録
実存主義について
実存主義についてのノート
実存主義について
前回フッサールについて軽くまとめたが、今回は実存主義について自分なりの理解も含めて、覚え書きとして残しておこうと思う。
「実存主義」という言葉は、一括りにされがちだが、実際にはニーチェ、ハイデガー、サルトルなど、それぞれの哲学者が考えていることはかなり違っている。
【そもそも実存主義とは?】
「人間とは何か」を一般論として考えるのではなく、「この世界に生きている私は、どう生きるのか」という人間の在り方を考えようとする思想。
「人間には最初から決められた意味や目的があるのだろうか」 「正しい生き方は誰かが教えてくれるのだろうか」 「そもそも、人生に客観的な意味など存在するのだろうか」 そうした問いに対して、実存主義では、答えがあることを前提にはしていない。 要するに、世界に「意味はない」し、生きることにも「意味はない」のである。 とはいえ、世界に意味が用意されていなかったとしても、それでも私たちは生き、何かを選択しなければならない。 その「実際に生きている人間」そのものを考えようとするところが、実存主義の特徴だと言える。
・実存 単純に言えば、「実際に存在していること」。現実存在。 ただし、実存主義でいう実存は、石や机が「存在する」という意味とは少し違う。 人間は、自分が存在していることを知りながら、「これからどう生きるのか」「自分は何者なのか」を考える存在でもある。 つまり、ただ存在しているだけではなく、自分自身の存在そのものを問題にすることができる。 このような人間固有のあり方を「実存」と呼ぶ。
【ニーチェ⸺「神は死んだ」】 誰でも一度は聞いたことがあるだろう。ニーチェの有名な言葉だ。 もちろん、文字通りに「神という存在が死んだ」という意味ではない。 ヨーロッパ社会を長く支えてきたキリスト教的な価値観や、「世界には絶対的な意味や正しさが存在する」という確信が失われつつあることを一言で表している。 もし絶対的な価値がなくなったなら、「何が正しいのか」「何のために生きるのか」を外側から教えてくれるものもなくなる。その価値観の形骸化を、ニーチェは神の死に例えた。 そうして生じるのがニヒリズムでもある。 ニーチェは、この価値の喪失を単純に嘆いたのではなく、既存の価値が崩れたあとに、人間が新たな価値を創造できるかを問題にした。
・ニヒリズム それまで信じていた価値や意味が失われ、「何をしても意味がない」と感じられる状態。 「神は死んだ」という状況のあとに起こりうる問題でもある。 ただ、ニーチェにとってニヒリズムは最終的な結論ではなく、乗り越えるべき問題だった。 意味が最初から存在しないのなら、自分たちで価値を創り出すことはできないだろうか。 そこからニーチェの「価値の転換」や「超人」といった考えにつながっていく。
【ハイデガー⸺被投性】 人間は、自分が生まれる場所や時代、身体、家族などを選んで生まれてくるわけではない。 気がついたときには、すでに世界の中に存在している。 この「自分で選んでいない状況の中へ、すでに投げ込まれている」という人間のあり方を、ハイデガーは被投性と呼んだ。 私はなぜこの時代に生まれたのか。 なぜこの身体なのか。なぜこの環境なのか。 そう問うことはできても、その出発点自体を選び直すことはできない。 人間は、与えられた状況から生き始めるしかない。
・企投 被投性とは反対方向の働き。 人間は与えられた状況の中にいるだけではなく、「これからどう生きるか」という可能性へ向かって自分自身を投げ出していく。 これを企投という。 つまり人間は、「すでにこうである自分」であると同時に、「これからこうなりうる自分」でもある。 過去や環境を自由に選ぶことはできなくても、その中で何を選び、どの可能性へ向かうかは完全には決められていない。 被投性と企投を一緒に考えると、人間の自由が「何でもできる自由」ではないことがわかりやすい。 (いずれ自由や自由意志についてもまとめたいが、今は置いておく)
・世人 ハイデガーが、人間の日常的なあり方を説明するために使った概念。 「普通はこうする」 「みんなそうしている」 「大人ならこうするべきだ」 といった、特定の誰かではない「世間一般」の価値観に従って生きている状態。 もちろん、社会の中で生きる以上、世間の価値観から完全に離れることはできない。 ただ、自分自身で選んでいるつもりだったものが、実は「みんながそうしているから」という理由だけだった……ということもある。 ハイデガーは、こうした日常的なあり方を、非本来的な存在の仕方として分析した。
・本来的/非本来的 少し誤解しやすい言葉。 本来的だから善で、非本来的だから悪い、という単純な区別ではない。 他人と同じように日常生活を送り、社会の中で役割を果たすことは、人間としてごく普通のあり方でもある。 ただ、その中で自分自身の生の可能性を忘れ、「みんながそうするから」という理由だけで生きてしまうこともある。 それに対して、自分が有限な存在であることを引き受け、自分自身の可能性として生きようとするあり方を、ハイデガーは本来的と呼んだ。
・死への存在 人間は、自分がいつか死ぬことを知っている。 しかも、自分の死だけは誰かに代わってもらうことができない。 ハイデガーにとって死は、単なる「人生の最後に起こる出来事」ではなく、自分自身の存在を理解するための重要な可能性だった。 いつか死ぬ。だからこそ、人生には限りがある。 その有限性を自覚したとき、「みんながそうしているから」ではなく、「私はどう生きるのか」という問いが、自分自身の問題として現れてくる。
【サルトル⸺「実存は本質に先立つ」】 「実存は本質に先立つ」とは、サルトルの実存主義を象徴する言葉だ。 私の中では、実存というもについて考えたとき、一番しっくり来る説明だった。 たとえば万年筆なら、「文字を書く道具」という目的が最初にあって、その目的に合わせて作られる。 つまり万年筆の場合、「本質」が先にあって、そのあとに実物が存在する。 しかし人間には、最初から完成した設計図が存在しない。
「あなたはこういう人間として生きなさい」という本質が先に決められているのではなく、まず世界に生まれ、そのあと自分の行動や選択によって「自分が何者なのか」を形づくっていく。 この意味で、「実存は本質に先立つ」ということになる。
・自由と責任 サルトル曰く、人間は自由な存在である。 ただし、「何でも好きなことができる」という意味ではない。 生まれた環境や身体、過去、社会など、自分では変えられない条件はたくさんある。 それでも、その状況をどう受け取り、どのように行動するのかという選択から完全に逃れることはできない。 何もしないことすら、「何もしない」という一つの選択になる。 つまり、自分で選ぶことができるということは、その選択を自分自身のものとして引き受けなければならないということでもある。 だから実存主義における自由は、必ずしも明るく解放的なものではない。 むしろ、「誰も代わりに決めてくれない」という重さを伴っている。 サルトルは、そんな人間の自由について、「人間は自由の刑に処せられている」と表現した。
・不安について 実存主義でよく出てくる感情。普通の「心配」とは少し違う。 目の前に決められた正解がなく、自分自身で選択しなければならないという自由そのものから生じる不安。 たとえば、崖の上に立ったとき、「落ちるかもしれない」という恐怖だけではなく、「自分は飛び降りることさえできてしまう」という可能性に気づく。 自由とは、自分が複数の可能性へ開かれていることでもある。 その可能性の広さが、不安を生む。
・悪い信仰 サルトルの概念。 自分自身の自由から目をそらし、「自分には他の選択肢などない」と思い込もうとする態度。 たとえば…… 「私は会社員だから、こうするしかない」 「こういう性格だから変えられない」 「みんながそうしているから仕方がない」 というように、自分自身を固定された役割や性質として扱う。 もちろん、本当に選択肢がほとんどない状況もある。 問題なのは、自由が存在するにもかかわらず、それを認める苦しさから逃れるために「自分には自由などない」と自分自身をごまかすこと。 サルトルはこれを「悪い信仰」と呼んだ。
【実存主義について考えてみる】
ここまでまとめてみると、実存主義は「自由に生きよう」という単純な思想では。 むしろ、世界には最初から意味が用意されておらず、自分がどこから生き始めるかも選べない。しかも、人生には限りがある。 それでも、自分の生き方について完全に誰かに任せることもできない。 ……そんな、人間の少し厄介な状況を見つめた哲学なのだと思う。 今回挙げた、三人の哲学者は皆違った考えを持っている。 しかし、「あなたは何者なのか」という問いよりも、「あなたは、これから何者として生きるのか」という問いを突きつけてくるところだけは、共通している。
今回は、以上の一文をもってまとめとしたい。 機会があれば、いずれ続きを書くかもしれない。